春秋時代一

春秋時代第一期に入る前に

春秋時代第一期の対象になるのは 平王・桓王・荘王・釐王・恵王・襄王・頃王 紀元前771~613年 の約百六十年です。 第一期概略 東周平王は即位すると犬戎を避けて東に遷り、洛邑で王室を復興しました。この時、鄭の武公が大きく貢献したため、平王に重用され…

春秋時代88 東周頃王(四) 斉の政変 前613年

今回で東周頃王の時代が終わります。 頃王六年 前613年 戊申 [一] 春正月、魯文公が晋から帰国しました。 [二] 春、東周頃王が在位六年で死にました。 当時、周朝廷では周公・閲と王孫蘇が政権を争っていたため、王の訃告が発せられませんでした。頃王が死ん…

春秋時代87 東周頃王(三) 士会の帰国 前614年

今回は東周頃王五年です。 頃王五年 前614年 丁未 [一] 春、晋霊公が大夫・詹嘉に食邑・瑕を与え、桃林の塞(険阻な地)を守らせました。秦の東進に備えるためです。 詹嘉は食邑を氏としたため、瑕嘉ともいいます。 [二] 晋は士会が秦にいることを恐れました…

春秋時代86 東周頃王(二) 河曲の戦い 前616~615年

今回は東周頃王三年と四年です。 頃王三年 前616年 乙巳 [一] 春、楚穆王が麇を討伐しました。前年、厥貉の会で逃走したためです。 楚の成大心が防渚(麇地)で麇軍を破り、楚の潘崇も麇を攻めて錫穴に至りました。 [二] 夏、魯の叔彭生(叔仲恵伯)が承筐(…

春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年

今回から東周頃王の時代です。 頃王 東周襄王が死に、子の壬臣(『十八史略』では壬匡)が即位しました。これを頃王といいます。 頃王元年 前618年 癸卯 [一] 春正月己酉(初二日。「正月己酉」というのは『春秋左氏伝』の記述で、『春秋』経文では二月。恐…

春秋時代84 東周襄王(四十四) 魯・公孫敖の出奔 前619年

今回で東周襄王の時代が終わります。 襄王三十四年 前619年 壬寅 [一] 春、晋が解揚を使者にして匡と戚の地を衛に返しました。 また、公壻池(人名。詳細不明)が定めた国境を恢復し、申から虎牢にわたる地を鄭に返しました。 [二] 夏、秦が晋を攻撃して武城…

春秋時代83 東周襄王(四十三) 晋霊公即位 前620年

今回は東周襄王三十三年です。 襄王三十三年 前620年 辛丑 [一] 春、魯文公が邾を攻撃しました。晋が国難(襄公死後、後継者が定まらないこと)に遭っていたため、その隙をついた出兵でした。 三月甲戌(十七日)、魯軍が須句を占領しました。 須句はかつて…

春秋時代82 東周襄王(四十二) 秦穆公の死 前621年

今回は東周襄王三十二年です。 襄王三十二年 前621年 庚子 [一] 春、晋襄公が夷(晋の地名)で蒐(狩猟。閲兵。軍事訓練)を行い、二軍を廃しました。五軍から三軍に戻ります。 狐射姑が中軍の将となり、趙盾(趙衰の子)が佐となりました(中軍の将は先且居…

春秋時代81 東周襄王(四十一) 西戎の覇・秦穆公 前623~622年

今回は東周襄王三十年、三十一年です。 襄王三十年 前623年 戊戍 [一] 春、魯文公が晋から帰国しました。 [二] 晋襄公は衛から捕えた孔達(東周襄王二十八年、前625年)を優秀な人材だと認め、帰国させました。 夏、衛成公が晋に入って謝礼しました。 [三] …

春秋時代80 東周襄王(四十) 秦の勝利 前624年

今回は襄王二十九年です。 襄王二十九年 前624年 丁酉 [一] 春正月、魯の叔孫得臣(荘叔。荘は諡号、叔は字)が晋・宋・陳・衛・鄭と共に沈国を攻撃しました。沈が楚に服したためです。 沈は壊滅しました。 なお、『資治通鑑外紀』は沈を姒姓で子爵の国とし…

春秋時代79 東周襄王(三十九) 秦の由余 前625年(2)

今回は東周襄王二十八年の続きです。 [七] ある日、「爰居」という海鳥が魯に飛んで来て、東門の外に三日間留まりました。臧文仲はこれを神鳥だと思い、国人に祭らせます。 それを知った展禽が言いました「臧孫の政は間違っている。祭祀とは国の大節(大切な…

春秋時代78 東周襄王(三十八) 彭衙の戦い 前625年(1)

今回は東周襄王二十八年です。二回に分けます。 襄王二十八年 前625年 丙申 [一] 秦の孟明視が軍を率いて晋を攻めました。殽の役(東周襄王二十六年、前627年)の報復のためです。 春二月、晋襄公が兵を率いて防ぎました。先且居が中軍を将に、趙衰が佐にな…

春秋時代77 東周襄王(三十七) 楚成王の死 前626年

今回は東周襄王二十七年です。 襄王二十七年 前626年 乙未 [一] 春正月、魯の文公が即位しました。 古代の中国では、国君が死んだらすぐに後継者を決めましたが、正式に即位をするのは年が改まってからのことでした。前君が死んだ翌年が新君の元年になります…

春秋時代76 東周襄王(三十六) 箕の戦い 前627年(2)

今回は東周襄王二十六年の続きです。 [四] 晋の喪に乗じて狄が斉(晋の同盟国)を侵しました。 [五] 魯釐公が邾を攻め、訾婁(または「訾楼」「叢」)を取りました。升陘の役(東周襄王十五年、前638年)の報復です。 秋、邾が備えをしなかったため、魯の襄…

春秋時代75 東周襄王(三十五) 殽の戦い 前627年(1)

今回は東周襄王二十六年です。二回に分けます。 襄王二十六年 前627年 甲午 [一] 春、秦軍が東に向かい、晋地を通ってから周王城の北門を通過しました。御者だけが戦車に乗り、車左と車右は冑を脱いで車から降ります。将兵は周王に拝礼してから行軍しました…

春秋時代74 東周襄王(三十四) 秦の東進 前628年

今回は東周襄王二十五年です。 襄王二十五年 前628年 癸巳 [一] 春、楚が鬬章を晋に派遣して和平を請いました。晋の陽処父は楚に答礼します。晋と楚の交流が再開しました。 [二] 夏四月己丑(十五日)、鄭文公が在位四十五年で死に、太子・蘭が即位しました…

春秋時代73 東周襄王(三十三) 趙衰の三譲 前629年

今回は東周襄王二十四年です。 襄王二十四年 前629年 壬辰 [一] 三年前、晋が曹共公を捕え、曹国の領土を占領しました(東周襄王二十一年、前632年)。 曹共公は釈放されて国に戻りましたが、曹国の国境が定められていません。そこで晋文公は曹国から得た一…

春秋時代72 東周襄王(三十二) 晋秦の不和 前630年(2)

今回は東周襄王二十三年の続きです。 [五] 鄭の大夫・佚之狐が鄭文公に言いました「国の危機です。燭之武(大夫)を送って秦君に会わせましょう。秦は必ず兵を還します。」 鄭文公はこれに従い、燭之武を召しました。しかし燭之武は辞退して言いました「臣が…

春秋時代71 東周襄王(三十一) 衛成公復位 前630年(1)

今回は東周襄王二十三年です。二回に分けます。 襄王二十二年 前630年 辛卯 [一] 春、晋が鄭に兵を進め、攻撃するべきかどうかを探りました。鄭が亡命中の晋文公に対して無礼を働き、しかも楚に附いたからです。 夏、晋が鄭に兵を動かしている隙を利用して、…

春秋時代70 東周襄王(三十) 介国 前631年

今回は東周襄王二十二年です。 襄王二十二年 前631年 庚寅 [一] 春、介葛廬が魯に来朝しました。介は東夷の国といわれていますが、はっきりしません。葛廬は介君の名です。 魯は介葛廬を昌衍(昌平山)に住ませました。 魯釐公は温の会に参加した後、許国の…

春秋時代69 東周襄王(二十九) 温の会 前632年(3)

今回で東周襄王二十一年が終わります。 [十三] ある人が亡命中の衛成公の前で元咺を讒言して言いました「元咺は既に叔武を国君に立てました。」 元咺の子・元角は成公に従っていましたが、讒言を信じた成公に殺されました。 しかし元咺は成公の命に逆らわず…

春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2)

今回は東周襄王二十一年の続きです。 [七] 夏四月戊辰(初一日)、晋侯(文公)、宋公(成公)と斉の国帰父(大夫)、崔夭(大夫)および秦の小子憖(穆公の子)が城濮(衛地)に駐軍しました。 楚軍は険阻な地を背にして陣を構えます。 晋文公が戦の行方を…

春秋時代67 東周襄王(二十七) 晋楚の対立 前632年(1)

今回は東周襄王二十一年です。三回に分けます。 襄王二十一年 前632年 己丑 [一] 前年、楚が宋を包囲しました。 春正月、晋文公は宋を援けるため、楚の同盟国・曹を攻めることにしました。曹は衛の東にあるため、文公は衛に道を貸すように要求します。しかし…

春秋時代66 東周襄王(二十六) 晋文公の三徳 前633年

今回は東周襄王二十年です。 襄王二十年 前633年 戊子 [一] 春、杞桓公が魯に来朝しました。 杞桓公が夷礼を用いたため、『春秋』は「杞桓公」ではなく、「杞子」と書いています(東周襄王十六年、前637年参照)。 魯釐公は杞国を軽視しました。 [二] 夏六月…

春秋時代65 東周襄王(二十五) 斉魯の対立 前634年

今回は東周襄王十九年です。 襄王十九年 前634年 丁亥 [一] 春正月己未(初九日)、魯公(釐公)が莒子、衛甯速(甯荘子)と向(莒地)で会盟しました。洮で結んだ盟約(前年十二月)を確認するためです。 莒子は「茲●公(●は「不」の下に「十」)」といい、…

春秋時代64 東周襄王(二十四) 介之推 前635年(2)

今回は東周襄王十八年の続きです。 [四] 前年即位した晋文公は亡命に従った者を賞してきました。ところが介之推は禄(褒賞)に関して語ることがなく、実際に禄を受けることもありませんでした。 『史記・晋世家』に記述があります。 晋文公は亡命に従った者…

春秋時代63 東周襄王(二十三) 周内乱の終結 前635年(1)

今回は東周襄王十八年です。 襄王十八年 叔帯二年 前635年 丙戍 [一] 春正月、衛が邢を攻撃しました。 刑に仕えた礼氏の二人(礼至とその弟。前年参照)が正卿・国子に従って城壁を巡視した時、国子の不意を襲って突然抱きかかえ、城外に落として殺しました…

春秋時代62 東周襄王(二十二) 周の内争 前636年(4)

今回で東周襄王十七年が終わります。 [八] 周襄王は鄭攻撃に協力した狄(翟)に感謝し、狄君の娘を王后に迎え入れることにしました。 富辰が諫めて言いました「いけません。『恩恵を施す者は報いを求めて限りないのに、恩恵に報いる者はすぐ嫌になる(報者倦…

春秋時代61 東周襄王(二十一) 鄭と周の対立 前636年(3)

今回も東周襄王十七年の続きです。 [六] 周襄王が晋文公の即位を認めて太宰・文公(周王の卿士・王子虎)と内史・興(叔興父)を派遣し、文公に国君としての命を下しました。晋は上卿が国境まで出迎え、文公自ら郊外で慰労し、宗廟に館を設け、九牢(牛・羊…

春秋時代60 東周襄王(二十) 帰国後の文公 前636年(2)

今回は東周襄王十七年の続きです。 [二] 以前、晋公子・重耳の財物は豎(未成年の侍臣)・頭須が管理していました。重耳が出奔した時、頭須は財物を隠して逃走しましたが、暫くして晋国に戻り、重耳が帰国できるように財物を使って画策しました。 文公が即位…