西周時代1 建国前(一) 后稷から亜圉まで

今回から西周時代ですが、まずは周王朝建国前の様子です。二回に分けます。
主に参考にしたのは『史記・殷本紀』『史記・周本紀』『帝王世紀』『十八史略』『竹書紀年』(古本・今本)資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』です。一部を除いて書籍名の紹介はしません。
 
 
周の先祖は五帝の時代、后稷までさかのぼります。
后稷は名を弃といい、母は有邰氏の娘で姜原(または「姜嫄」)といいます。有邰氏は炎帝の後裔で姜姓なので、姜原の姜は姓です。原は字といわれています。姜原は帝嚳の元妃(正妃)でした。
 
ある日、姜原が郊禖(後継ぎの出産を祈願する祭祀)を行いました。この時、野で巨人(神人)の足跡を見つけました。姜原は楽しくなりその足跡を踏みます。すると体の中に動くものを感じて妊娠しました
翌年、姜原は子を産みましたが、不祥の子と思って隘巷(路地)に棄てました。しかし道を歩く馬や牛が全て避けて通ります。今度は林中に棄てましたが、山林を歩く人が増え、林を伐採する人が蓆を被せて守りました。更に渠(溝)の氷の上に棄てると、大鳥が飛んできて翼で温めました。姜原は神異なことだと思い、自分で養うことにしました。始めは棄てようとしたため、「弃」と名付けました。「弃」は「棄」と同じです。
 
弃は子供の頃から大人と同じような志をもちました。麻や菽を植える遊びを好み、それらは全て立派に生長しました。
成人になると天を仰いで房星の動きから農業の時機を測るようになりました。土地の性質にあわせて穀物を育てたため、人々がそれを真似るようになります。
は岐頤(頭の骨が隆起している様子)の異相だったといいます。
 
舜が堯に推挙したため、弃は農正(農業を担当する官)を統率することになり、稷官(または「農師」)に任命されました。
帝舜の時代に邰斄)に封じられ、后稷と号しました。帝嚳の姓である姫氏を名乗ります。
后稷は民を慈しみ、農業に努めました。封じられた地は百里でしたが、教化は天下に拡がり、唐堯、虞舜および夏の時代にわたって徳を残しました。
 
后稷は黒水の間の潢渚の野で死にました。黒水と清水の間に広都の野があり、后稷はそこに葬られました。墓は中国(中原)から三万里も離れていたといいます。
 
后稷の跡を継いで子の不窋が立ちました。『帝王世紀』は「稷は姞氏を娶って不窋を産んだ」と書いています。
但し『史記・索隱』は不窋から文王まで十四代しか存在しないのは少なすぎるとしており、『史記・正義』も虞(帝舜)および夏・殷は千二百年もあるので、十五世(后稷から数えて)しかいないとしたら一人の君主が八十余年の在位を保たなければならないと書いています。
山海経・大荒西経』によると、帝嚳は后稷と台璽を産みました。后稷の業は弟の台璽が継ぎ、その後は台璽の子・叔均に継承されたようです。恐らく叔均の子孫が不窋で、その間に何代か存在するはずですが、伝わっていません。
山海経』の説を採った場合、周の家系は后稷の直系の子孫ではなく、弟・台璽の子孫ということになります。
 
不窋の末年、夏后氏の政治が衰え、后稷の官が廃されました。農業が廃れます。『史記・周本紀』はこれを夏王朝太康の時代に当たるとしていますが、前述の通り、不窋の代になるまでに何代か存在するはずなので、恐らくもっと後のことだと思われます。
官を失った不窋は戎狄の地に出奔しました。
 
不窋が死んで子の鞠が立ち、鞠が死んで子の公劉が立ちました。
公劉は戎狄の地にいましたが、后稷の業を復興させて農業に励み、土地の良否を観察し、漆水・沮水から南に向かって渭水を渡り、南山で木材を集めて村を作りました。
公劉が移住した場所は豊かになり、村から出ていく者は資金があり、入ってくる者には蓄えがありました。民はその徳を慕い、多くの人が帰順するようになります。周辺の諸侯もその徳を敬い、天子の礼で接しました。周の道は公劉から興ったため、人々はその功績を称えて歌を作りました。『詩経大雅』の「篤公劉」がそれです。
資治通鑑前編』はこれを夏王朝最後の王・桀の時代のこととしています。
 
公劉が死んで子の慶節が立ちました。公劉が移住してきた場所である豳を正式に国(都)としました。
 
慶節が死んで子の皇僕が立ち、皇僕が死んで子の差弗が立ち、差弗が死んで子の毀隃(または「毀楡」「偽楡」)が立ち、毀隃が死んで子の公非(もしくは「公非辟方」。あるいは公非辟方」は公非」と「辟方」の二人。あるいは「辟方」は字)が立ち、公非が死んで子の高圉が立ちました。
高圉(または「高圉侯侔」。あるいは「高圉」「侯侔」は二人の名)は后稷の業を継いだ者として後に周の人々から祀られることになります。
高圉は商王朝からも正式に豳(邠)の国君の地位を認められました。
 
高圉が死んで子の亜圉(または「亜圉雲都」。あるいは「亜圉」と「雲都」の二人。あるいは「雲都」は字)が立ちました。
亜圉も商王朝から邠侯の地位を承認されています。
 
圉が死んで子の公叔祖類(または「叔類」「太公叔穎」太公組紺諸」。あるいは「叔類」は字で、「太公」は号が立ち、公叔祖類が死んで古公亶父が立ちました。
 
亶父の時代から周は大きく発展します。
 
次回に続きます。