西周時代2 建国前(二) 古公亶父以降

今回も西周建国前の様子です。古公亶父以降です。
 
 
古公亶父は太王とよばれます。
再び后稷、公劉の業を復興し、徳を積んで義を行ったため、国人に愛されました。
当時、商の武乙が暴虐だったため、犬戎等が辺境を侵すようになりました。
豳も薫育の狄人に攻撃されました。薫育というのは匈奴の古名で「獯鬻」とも書きます。
薫育が財物を要求すると亶父は皮幣、犬馬、珠玉、菽粟、財貨を贈りました。
しかし暫くすると薫育がまた攻めて来て、今度は民と土地を要求しました。怒った民衆は戦おうとしましたが、亶父は薫育の要求に同意します。
豳の老人が亶父に言いました「主君は社稷(国)のことを考えないのですか。」
亶父が言いました「社稷とは民のためにあるものであり、民を亡くす存在であってはならない。」
老人が言いました「主君は宗廟のことを考えないのですか。」
亶父が言いました「宗廟とは私的なものである。私的なもののために民を害してはならない。民が君主を立てるのは、そこから利益を得るためだ。戎狄が我々を攻めて来たのは、土地と民が欲しいからだ。民が私の統治下にいるのと、狄人の統治下にいるのとでは、何の差があるだろう(当時、亶父等も西方の異民族と同じ生活をしていました)。民は私のために戦おうとしているが、人の父や子を殺してまで君主でいようとは思わない。」
亶父は杖をついて豳を去り、一族を連れて漆水・沮水を渡り、梁山を越えて岐山の陽(南)に至りました。この地を周原といい、新たな邑が作られます。ここから国号を「周」と号しました。
豳の人々も「仁人の君を失ってはならない」と言い、国を挙げて南下しました。老人や子供を抱えながら車二千乗の民が移動し、一年で三千戸の邑になります。周りの国も亶父の仁徳を聞いて帰順しました。
二年後には都(大邑)となり、三年で五倍になったといいます。
亶父は戎狄の習俗を退けて中国(中原)生活様式を取り入れることにしました。城郭や家屋を建て、村落を作って民を居住させ、五官司徒・司馬・司空・司士・司寇)を定めて官員を任命します。
人々は歌い踊って喜び、亶父の徳を称えました。
詩経』の『大雅・綿』等が亶父の功績を伝えています。
 
古公亶父は有邰氏の娘・太姜を娶りました。太姜は美しくしかも貞順聡明で、長子・太伯、次子・仲雍、少子・季歴王季)教育して賢徳の人物に育てました。亶父は何かを計画する前に必ず聡明な太姜と相談しました。
 
三子・季歴は摯国任氏の娘・太任を娶りました。太任も誠実な女性で徳がありました。子の昌を妊娠した時には悪色(悪い物)を見ず、淫声(淫らな音楽)を聴かず、傲言(傲慢な言葉)を口にしませんでした。胎内の子を教育するためです。こうした生まれた昌は後に文王とよばれることになります。
太任は長人(巨人)の夢に感応して妊娠し、豕牢(厠)で昌を産んだともいわれています。
 
昌が産まれた時、聖瑞が現れました。
昌は胎児だった時も太任を困らせることがなく、産まれてからも傅(国君の教育係。または傅姆。貴族の子女を補導する老婦人)が手を焼くことなく、学習を始めてからも師を煩わせることがありませんでした。父に仕えても怒らせることがなく、兄弟とも睦まじくし、諸弟の中で特に二虢(昌の弟・虢仲と虢叔)と親しく接しました。
ある日、亶父が言いました「我が子孫で興隆する者がいるとしたら、それは昌だろう。」
亶父は季歴を後継者に立てて昌に継承させたいと考えるようになりました。それを知った長子の太伯と次子の虞仲は荊蛮(呉)の地に移りました。
二人は刺青をし、髪を切って荊蛮の風俗に染まります。太伯は句呉(呉国)を号しました。荊蛮の人々は二人を義人と称え、千余家が帰順しました。
 
亶父が死にました。百二十歳だったともいわれています。
亶父は死ぬ前に季歴に言いました「わしが死んだら汝は二人の兄を呼べ。彼等は位を譲るはずだ。そうすれば汝は義を守り、その地位を安定させることができる。」
亶父が死ぬと季歴は太伯と仲雍を招きました。群臣は太伯に即位を勧めます。しかし太伯と仲雍は先君の命を重んじて季歴に譲り、荊呉に還りました。
 
季歴が亶父の跡を継ぎました。これを公季といいます。『竹書紀年』(今本)は公劉から十三世で季歴に至るとしていますが、『史記』の『周本紀』『三代世表』では公劉を含んで十一代目が季歴になっています。「公非辟方」や「高圉侯侔」等が二人の人物を指しているのか、どこかに抜けがあるのかもしれません。
 
季歴は古公亶父の遺道を修め、行義を厚くしたため、諸侯が帰順しました。
季歴の十年、飛龍が殷の牧野を満たしました。聖人が起きる予兆です。
 
季歴の業績については商王朝の時代にも書きましたが、以下、簡単に再述します。
商王朝後期、季歴は西落鬼戎を攻めて狄王を捕えました。
燕京の戎を攻めて大敗しましたが、余無の戎を破り、商王朝は季歴を牧師に任命しました。
やがて季歴は程に遷りました。
季歴は始呼の戎や翳徒の戎を敗り、三大夫を捕えました。
これらの功績によって商王朝から九命を受け、伯西長。西伯)に封じられます。圭瓉(玉の酒器)と秬鬯(酒)を下賜されました。
 
季歴は百歳で死んだといわれています。鄠県の南山に埋葬されました。
 
季歴が死んで子の昌が立ちました。これを西伯・昌といいます。
西伯・昌は龍顔虎肩という様相で、身長は十尺、胸には四乳があったといいます。十二歳で元服して冠をかぶりました。
黄帝の時代に讖言がありました「西北に王あり。時は甲子。昌が命を制定し、発が誅を行い、旦が道を行う(西北為王,期在甲子,昌制命,發行誅,旦行道)。」
讖言にある「昌」は西伯・昌(文王)を指します。発は文王の子・武王、旦は武王の弟にあたる周公・旦です。
 
西伯・昌も徳を修めました。商王朝最後の王・紂から西伯に任命され、諸侯を討伐して勢力を拡大し、都を程から豊に遷しました。西伯・昌は周国内で既に王を称していたともいわれています。諡号は文王です。
これらは既に述べたので詳述しません。
 
文王が死に、子の発が継ぎました。これが武王です。
武王は駢歯望羊「駢歯」は歯が二列あるという聖人の相。「望羊」は「望洋」とも書き、遠くを眺める姿です)という異相でした。
 
武王は文王の意思を継いで紂を討伐し、牧野で破って商王朝を滅ぼしました。『竹書紀年』は即位後十二年、『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』は十三年のこととしています。
 
 
次回から西周武王の時代に入ります。