西周時代3 武王(一) 即位

今回から西周武王の時代です。五回に分けます。
今までと同じく、主に参考にしたのは『史記・殷本紀』『史記・周本紀』『帝王世紀』『十八史略』『竹書紀年』(古本・今本)資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』です。一部を除いて書籍名の紹介はしません。在位年は主に『竹書紀年』(今本)を参考にしました。
 
 
武王
 
十二年 辛卯(『今本竹書紀年』)
資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』では十三年己卯。
『帝王世紀』は「武王が即位して二年後に観兵して孟津に至り、四年後の乙酉の年に紂を討って天子となった」としており、『竹書紀年』(今本)の「十二年」、『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』の「十三年」と大きな差があります。
 
[一] 武王が諸侯を率いて殷を討ち、牧野野)で破りました。この内容は既に書いたので詳述しません。
商帝・受辛(紂)が死に、商王朝が滅びました。
 
牧野の戦いが終わり、武王が殷の宮殿に入って堂に登ると、大量な珠玉が目に入りました。宮室に入ると多数の美女がいました。武王は珠玉を諸侯に返し、宮女を家に帰らせました。
それを聞いた天下は財と色を求めない武王を称賛しました。
 
武王が宮殿を出て軍に還りました。
天下がまだ安定していないため、武王は不安になり、呂尚に聞きました「殷の士衆をどうするべきだろうか。」
呂尚が答えました「ある人を愛したら屋根の上の烏まで愛し、ある人を憎んだらその家の壁まで憎むといいます(愛其人者,兼屋上之烏。憎其人者,悪其餘胥)。殷民は凶悪なので、残さず全て滅ぼし、威信を振るわせるべきです。」
武王は同意せず、召公・奭に意見を聞きました。召公が言いました「罪がある者は殺し、罪がない者は赦して善悪を明らかにするべきです。」
武王はやはり同意せず、周公・旦に聞きました。周公が言いました「それぞれ自分の家に帰らせ、自分の田を耕させるべきです。新旧変えることなく、徳を示して教化し、ただ仁をもって臨めば、帰心させることができます。」
武王は同意しました。
 
翌日、雨が降りました。
武王は道を清めさせ、社(土地神の社)と紂の宮殿を整備させました。
所定の時間になると、百夫(百人の戦士)が罕旗(細長い旗)を持って先導します。武王の弟・叔振鐸が常車(儀仗車)を率い、周公・旦が大鉞を持ち、畢公・高が小鉞を持ち、二人で武王を挟んで進みました。散宜生、太顛、閎夭が剣を持って武王を護衛します。
一行は宮殿に入り、武王が社の南、大卒将兵の左に立ちました。群臣がそれに従います。
毛叔鄭が明水(祭祀に用いる水)を持ち、衛康叔が布茲(蓆)を敷き、召公・奭が采(布帛。絹織物)を持ち、師尚父・呂尚が犠牲の動物を牽きました。
尹佚が祝文を読みました「殷の末孫・季紂は先王の明徳を廃し、神祇を侮って祀らず、商邑の百姓(民衆)に対して暴虐だったため、それが天皇上帝に聞こえることになった。」
武王が再拝稽首して言いました「大命を受けて改め、殷を変革し、天の明命を受けました膺更大命,革殷,受天明命)。」
武王はまた再拝稽首して退出しました。
 
資治通鑑外紀』によると、この日、武王は柴を焼く儀式で天を祭り、社で祭祀を行い、成湯の廟を詣でたとしています。但し柴の儀式は豊に帰ってから行ったと思われます(後述)
 
その後、牧室(牧野に建てた館)で奠祭(死者を祀る儀式)を行いました。
 
武王は諸侯だった時も周国内で王を名乗っていた可能性がありますが、表向きは西伯でした。商王朝を滅ぼして正式に天子の位に即きました。
儀式が終わった武王は、帝号を落として王号を名乗ることに決めました。夏と商は生前には王(または「后」)を名乗り、死後は帝と称されましたが、武王は自分の徳が薄く五帝に及ばないと考えて帝号を避けました。周の天子は皆、王を名乗ります。
古公亶父から周の王瑞が興ったため、武王は古公亶父を太王に、公季(季歴)を王季に、西伯・昌を文王に追尊し、天子の礼で祀ることにしました。但し、亶父と季歴の追尊は文王が行ったともいいます。武王が即位後に三人を追尊したとしたら、文王は生前に王を名乗っていなかったことになります。
 
あるいは、太王、王季及び文王を追尊したのは、豊に還って宗廟を祭った時のことかもしれません。
尚、『資治通鑑前編』は太王・王季・文王の三王を追尊した時に『諡法』を定めたとしています。

[二] 武王が即位して三日後、師尚父・呂尚が『丹書』の言を伝えました。『資治通鑑外紀』に紹介されています。一部抜粋します。
「敬う心が怠惰の心に勝る者は吉となり、怠惰の心が敬う心に勝る者は滅びます。義が欲に勝る者は栄え、欲が義に勝る者は凶となります。何事においても努力しなければ曲がり、敬謙にならなければ正しくなくなります。曲がった者は滅び廃され、敬う心を持つ者は万世に残ります。」
「仁によって得て仁によって守れば、その国は百世に渡って継続できます。仁によって得ても不仁によって守るようなら、その国は十世しか続きません。不仁によって得て不仁によって守るようなら、必ずその代で傾きます。」
武王はこの内容を聞いて非常に恐れ、十七条の戒めを書いて机や鏡、盥(たらい)、杖、武器等、いつも見える場所に貼りました。例えば鏡には「事前に予見し、事後に考察しなければならない。」杖には「いつ道を失いやすいか。欲が増えた時である。いつ忘却しやすいか。富貴を得た時である。」剣には「これを用いる時は徳を行わなければならない。徳を行えば興隆し、徳に背けば滅亡する」と書かれました。
 
武王が周公・旦に命じて殷の遺老を推挙させ、殷が滅んだ理由を聞き、また民衆が欲するものが何か尋ねました。遺老は「盤庚の政が恢復されることを願います」と答え、武王は同意しました。
武王は殷人にも周人と同じように接しました。太鼓を破って鼓槌を折り、弓を緩めて弦を断ち、部屋から出て野外に露営することで簡素な生活を表し、剣を外して笏板に持ちかえることで天下に仇がいないことを示しました。
 
人々は武王の徳を慕い、その義を喜び、歌を作って称賛しました。
『帝王世紀』は『詩経・小雅』の「魚麗」から「菁菁者莪」に至るまでの十篇(または「七篇」)が武王を称賛する詩だとしています。
 
[三] 周王朝は子の月を正月に改めました。子月は夏暦の十一月にあたります。夏暦は寅月を正月とし、殷(商)暦は丑月(夏暦の十二月)を正月としました。夏暦は人統、殷暦は地統、周易は天統ともよばれ、まとめて「三統」といいます。
但し周は夏暦によって定められた民事や四季に関すること、および巡狩や祭祀はそのまま夏暦を用いることにしました。周暦は主に政事を記録する時に使われます。
西伯・昌(文王)の時代にも暦が改めたという記述がありました。西伯・昌は諸侯としての周国内で暦を改め、天下の主となった武王によってそれが全国に施行されたのだと思われます。
 
周は火徳の王朝で赤を貴びました。水徳の商王朝を継いで木徳を名乗ったとする説もあります。五徳に関しては別の場所で書きます。
 
周の社は栗の木を使い、葬儀では栢を植え、犠牲には騂(赤い馬)を用いました。
赤を王朝の徽号(しるし)とし、正装では(冠の一種)をかぶって玄衣(黒い服)を着ることにしました。
八尺が一寸に定められました。夏王朝は十寸が一尺、商王朝は十二寸が一尺でした。
 
 
次回も武王の時代です。