西周時代4 武王(二)

今回も西周武王の時代です。十二年の続きになります。
 
[四] 武王が紂の子・武庚祿父を諸侯に封じて殷の祭祀を続けさせ、盤庚の政治を継承させたため、殷民が喜びました。
 
[五] 武王が召公・奭に命じて箕子を釈放させ、貝千朋(「朋」は貨幣の単位)を下賜しました。
また、畢公・高に命じて捕えられていた百姓(民衆)を釈放させました。
 
武王は賢人を賞揚してその地位を明らかにしました。
商容の閭(里の門)に旌(徳を称える旗・標識)を立てて表彰しました。
殷紂の時代、商容は賢人で百姓に愛されていましたが、紂に退けられました。そこで商容は紂を討つことを考えました。籥(笛の一種)と羽(恐らく舞踏の道具)を持ち、馬徒(馬夫)に近づきます。しかし計画は失敗し、太行山に隠れました。
武王は商容を三公に立てようとしましたが、商容は堅く辞退してこう言いました「私はかつて紂を討とうとしましたが、果たせませんでした。これは愚です。その後、戦おうとせず隠れました。これは無勇です。愚のうえに無勇なので三公の資格はありません。」
 
武王は南宮适(または「南宮括」)に命じて鹿台の財や鉅橋の穀物を放出し、貧民を救済させました。
璇台の珠玉を諸侯に返し、傾宮の美女を家に帰らせました。
南宮适と史佚に命じて九鼎と宝玉を公開させました。『帝王世紀』には「南宮伯達(南宮适の字)と史佚に命じて九鼎を洛邑に遷した」とありますが、これはもっと後洛邑建設後)のことだと思われます。『竹書紀年』(今本)は武王十五年に「九鼎を遷した」と書いています。
閎夭に命じて比干の墓を作らせました。
宗祝(祭祀を掌る官)に命じて軍中の犠牲者を祀らせました。
 
殷民が喜んで言いました「王の仁人に対する態度は、死者にも墓を作るほどだ。生者に対してならなおさらだろう。王の賢人に対する態度は、亡者(亡命した者)でも閭を表彰するほどだ。存者(残った者)に対してならなおさらだろう。王の財に対する態度は既に財宝が集められているのに放出させたほどだ。再び集めることはないだろう。王の色に対する態度は、既に美女が集められているのに父母のもとに帰らせたほどだ。再び徴集することはないだろう。」
 
微子啓が祭器をもって周の軍門に至りました。
この時の微子の姿が『宋微子世家』にあります。
微子は肉袒面縛(上半身の服を脱いで手を後ろで縛ること)となり、の者にを牽かせ、の者にを持たせ、で前に進んで武王に帰順を伝えました
資治通鑑外紀』では、手を後ろに縛って口に璧をくわえ、車に棺を載せていたとしています。
どちらも投降の姿です。
武王は自ら縄を解き、璧を受け取り、棺を焼きました。微子啓は礼をもって迎え入れられ、元の官位に戻されました。
 
殷に仕えていた膠鬲等も武王に忠誠を誓って臣下となりました。
 
[六] 紂に仕えていた悪来の父・蜚廉は北方に使していました。帰った時には紂が死んでおり、報告する相手がいません。そこで霍太山に壇を築いて紂を祀り、報告しました。壇を築く時、石棺を発見しました。そこにはこう書かれていました「天帝は処父(蜚廉の号)を殷の乱に関係させなかった。汝に石棺を賜い、汝の子孫に光輝を与える。」
 
[七] 武王が殷の乱を平定したため、天下が周を宗主としました。
しかし伯夷と叔斉はこれを恥じて周の粟を食べず、首陽山に隠居して歌を作りました「彼の西山に登って、その薇(ぜんまい)を採る。暴をもって暴に代え、その非を知らず。神農・虞(舜)・夏(禹)は忽然と没した(あのような聖人の世は失われた)。私はどこに帰ればいいのか。ああ行こう(死のう)。命の衰えたものだ(登彼西山兮,采其薇兮。以暴易暴兮,不知其非矣。神農虞夏,忽焉没兮。我安適帰矣。于嗟徂兮。命之衰矣)。」
二人は首陽山で餓死しました。
 
一説によると、伯夷と叔斉は薇を食べて生きていましたが、野(田野)に住む婦人が「あなた達は義によって周の粟を食べないと言っていますが、薇も周の草木ですよ」と言ったため、二人は餓死したともいわれています。
 
[八] 武王は殷の長者がいると聞いて自ら会いに行きました。武王が長者に殷が滅んだ理由を聞くと、長者は「王がその理由を知りたいなら明日の正午にまた来てください」と言いました。
翌朝、武王は周公・旦と共に早くから準備をして会いに行きました。しかし昼になっても長者は現れません。
武王が不思議に思うと、周公が言いました「彼は君子です。自分の主の欠点を口にすることが忍びず、このようにしたのです。約束の時間になっても現れないのは信用を守らないということです。これが殷が滅んだ理由です。彼はこのような方法で殷が滅んだ理由を我々に教えたのです。」
この話は『呂氏春秋・慎大覧・貴因』に収録されています。
 
武王が商の二人の捕虜に聞きました「汝の国には妖(異変・怪事)があったか?」
一人が答えました「私の国で起きた妖は、昼に星が現れ、天が血や灰の雨を降らせ、時には甕ほどもある石の雨を降らせたこと。それから六月なのに雪が降ったことです。」
もう一人が言いました「これらも妖です。しかし大妖ではありません。殷では子が父の言うことを聞かず、弟が兄の言うことを聞かず、君令は行われず、殷君は刑罰を好んで人の心(内臓)を斬り裂き、人を虎に食べさせ、信ずるべきことを偽りとみなし、欺瞞な者が忠臣とされ、忠臣が不忠と貶められ、阿諛する者が賞され、女子が政治に干渉し、君子が下におり、小人が上に立ち、急令によって百姓を搾取し、万民が憂い苦しみ、狩猟を好み、犬や馬を走らせるのに季節を選ばず、風雨や寒暑を避けることもなく、宮室や池台の建築を頻繁に行い、百里もある大宮は七十三カ所にも上り、立つ時も坐る時も金鼓が鳴り(坐起以金鼓)、長幼・貴賎の秩序がなく、礼・義・忠・信も失い、斗尺権衡(度量衡等の決まり。社会の秩序)もありませんでした。これこそ大妖です。」
武王はこの言葉を貴び、席を立って再拝しました。
 
武王が五行山に宮殿を築こうとしました。しかし周公・旦が言いました「いけません。五行山の地は四方を塞がれた険阻な地です。我々の徳が天下を覆っても、進貢する者がわざわざ迂回して来なければなりません。また、我々が暴乱を行った時、天下が我々を討伐しようとしても困難になります。」
 
殷の地での戦後処理が終了し、武王は兵を解散させて西に還りました。
帰路、武王は各地を行狩(巡幸)し、政事に関する記述を行いました。
 
[九] 夏四月、武王が豊に還りました。周の都は鎬京ですが、宗廟は豊にあります。あるいはこの時の都はまだ豊かもしれません。鎬京の建設は西伯・昌(文王)の時代から始まりましたが、具体的にいつ遷都したかは分かりません。『竹書紀年』(今本)は「天下を得て鎬に遷都した(既有天下遂都於鎬)」と書いているので、殷を滅ぼして帰国してから正式に鎬京を都にしたのかもしれません。
 
武王が太廟を祭り、殷の捕虜や首が太室に捧げられました。
武王が殷討伐の功績を諸侯に宣言する『武成』を作りました。『尚書』に収録されています。
周廟の祭祀の日は、『帝王世紀』は「夏四月乙卯」としていますが、『尚書・武成』では「四月丁未に周廟で祭祀を行い、各地の諸侯が集結した」「三日後の庚戌の日に柴の儀式で天を祭り、望の儀式で山川を祭った」としています。「柴」は柴を焼いて天に報告する儀式、「望」は「遥祭」といい、大地や天象を祀る儀式です。
また、『武成』によると武王が殷に遠征に行く前(周暦正月)には月が光を失い、遠征から還ると光を取り戻したそうです。
 
一連の儀式に関して『逸周書・世俘解』にも詳しい記述がありますが省略します。
 
 
 
次回に続きます。