西周時代5 武王(三) 分封

今回も西周武王の時代です。十二年の続きになります。


[] 全国の諸侯や百官が豊に集まりました。武王は諸侯や功臣および聖人の子孫を分封しました。まず聖人の子孫が封侯されます。


神農の子孫が焦に封じられました。


黄帝と帝堯の子孫に関しては説が分かれます。
史記・周本紀』は「黄帝の子孫を祝に、帝堯の子孫を薊に封じた」としていますが、『礼記・楽記』では「黄帝の子孫を薊に、帝堯の子孫を祝に封じた」としており、『資治通鑑外紀』も『礼記』に従っています。

帝舜の子孫も封侯されました。以下、『資治通鑑外紀』と『史記・陳杞世家』からです。
かつて夏禹夏王朝初代王)によって帝舜の子・商均が虞に封じられましたが、その後、虞国は断絶と再封を繰り返してきました。その子孫にあたる虞閼父は製陶の技術が秀でていたため、周の陶正(陶器の製造を掌る官)として武王に重用されていました。武王は元女(長女)・太姫を虞閼父の子・虞満に嫁がせます。
殷紂を滅ぼしてから、武王は虞満を太皥(伏羲氏)の墟都・宛丘の傍に封じて帝舜の祭祀を継承させました。これを陳国といいます。虞満は諡号を胡公というため、通常「胡公・満」とよばれています。
資治通鑑外紀』では「舜が庶人だった時、嬀水の辺に住んでいたため、武王は胡公に嬀姓を与えた」としていますが、『陳杞世家』には「舜が庶人だった時に堯の二人の娘を娶って嬀汭(嬀水が曲がるところ)に住んだため、その子孫が嬀を名乗った」と書かれています。


こうして「三恪」が備わりました。「三恪」というのは黄帝、堯、舜の子孫を敬って諸侯の地位を明確にすることです。「恪」は「恭敬」「謹慎」という意味があります。
但し、「三恪」の対象を舜、夏、商の子孫とすることもあります。


大禹の子孫も商王朝の時代に途絶えたり再封されてきました。武王はその子孫を探して杞に封じ、夏后(夏王)の祭祀を継承させました。杞の初代国君を東楼公といいます。姓名は伝わっていません。

また、帝堯時代の四岳・伯夷の子孫にあたる姜文叔を探し出して許に封じました。姜文叔は太公望呂尚と共通の祖先をもちます。


続いて功臣謀士の封爵を行いました。師尚父・呂尚の功績を最上とし、営丘に封じました。斉国の始まりです。


周公・旦(武王の弟)は少皥(少昊。黄帝の子・玄囂)の墟である曲阜に封じられました。魯国です。


召公・奭(周の宗室)は燕北燕に封じられました。


武王の弟にあたる畢公・高は畢に、叔鮮は管に、叔度は蔡に、叔振鐸は曹に、叔武は郕に、叔処は霍に封じられました。康叔封と聃季載は幼かったため封侯はありません。


史記・管蔡世家』が文王の子(武王の兄弟)についてまとめて紹介しています。
文王の正妃は太姒といいます。姒姓の女性で、夏禹夏王朝初代王)の子孫といわれています。太姒は十人の子を産みました。長子は伯邑考(伯は最年長の意味)で、次子が武王・発です。その後は管叔・鮮、周公・旦(魯国の祖)、蔡叔・度、曹叔・振鐸、成叔(郕叔)・武、霍叔・処、康叔・封(康は畿内の国名。後に衛国に遷されます)といい、末子が冄季載(冄は国名。季は最年少の意味)になります。
十人の同母兄弟の中で特に発と旦に賢才があり、常に文王の左右に仕えて補佐してきました。そのため文王は長子の伯邑考ではなく、次子の発を太子に立てました。
文王が死んで発が即位した時、伯邑考は既に死んでいました。その後世がどこに封侯されたかはわかりません。


武王が箕子に殷滅亡の理由を聞き、こう言いました「わしが紂を殺したのは正しかったか、誤りだったか?」
箕子は殷を悪くいうことが忍びず、武王も箕子に質問したことを恥じて天道について聞きなおしました。箕子は天地の道理を語り、天下を治める法則を説きます。その内容は『史記・宋微子世家』と『尚書・洪範』に収められています。『史記』の記述を別の場所で紹介します。
武王は箕子を朝鮮に封じ、臣下として接することはありませんでした。


他の者も功績に応じて各地に封じられました。爵位は五等に分けられます。公・侯・伯・子・男爵です。土地は三等に分けられました。公・侯は百里、伯は七十里、子・男は五十里です。


資治通鑑外紀』によると天下に七十一国が並び立ち、そのうち武王の兄弟の国は十五、姫姓の国は四百(四十の誤り)ありました。
史記・管蔡世家』の注(集解)には「文王の兄弟で侯となる者十六国」とあります。
十五国もしくは十六国のうち、管、周(魯)、蔡、曹、成(郕)、霍、康(後の衛)、冄の八国は武王の同母弟の国になります。
後に武王の子も封侯されました。『春秋左氏伝(僖公二十四年)』には「邗、、韓王の(子)」とあります。このうち、晋に関しては成王時代に述べます。
荀子儒効果』には「七十一国が立ち、姫姓は五十三を占めた」とあります。『帝王世紀』は全国の諸侯の数を四百国としています。
史記・陳杞世家』には「周武王の時、侯伯は千余人もいたが、幽王、厲王の後になると諸侯が互いに争い、併合するようになった。江、黄、胡、沈といった小国は数えきれないほどあったので、いちいち(『史記』の中に)記録を残すことはしなかった」とあります。


史記』が諸侯の状況を簡単にまとめているので、別の場所で紹介します。


武王は諸侯に宗彛(宗廟の樽)や殷の器物を分け与えて『分殷之器物』(恐らく『尚書』に収録されていたという『分器』という文章。今は伝わっていません)を作りました。


封侯と同時に官員の任命も行いました。賢才を用いて官の長とし、能力に応じて職務を与えました。官吏は民に五常(君臣・父子・兄弟・夫婦・朋友の五つの関係における倫理秩序。五倫)を教え、衣食や葬祭、祭祀を重視し、信義を守って徳を修めたため、武王が何もしなくても天下が治まるようになりました。


周公・旦は封地の魯に行かず、周に残って武王を補佐することになりました。
今までも頻繁に登場してきた周公・旦ですが、ここで『史記・魯周公世家』から周公・旦の人物像を簡単に紹介します。
周公・旦は武王の弟です。かつて周の太王が住んでいた周(岐山の麓)の地を采邑としたため、周公といいます。父の文王が存命だった頃から、旦は孝心と仁の篤さで知られており、他の子達(旦の兄弟)と大きく異なっていました。武王が即位してからは旦がしばしば武王の輔翼となり、政務に従事しました。武王が即位して九年目に東伐を行うと、周公も同行して盟津に至りました。
武王十一年には紂討伐に参加して牧野に至ります。周公は武王を補佐して『牧誓』を作りました。
周が殷を破ってから(中略)、武王は功臣や同姓の親族を封侯しました。周公・旦は少昊の虚(墟)である曲阜に封じられます。これを魯公といいます。
しかし周公は封国に行かず、周に留まって武王を補佐し続けました。


畢公・高の子孫は国名を氏としました。しかし久しくして爵位が途絶え、庶人となり、中国(中原)や夷狄に住むようになりました。

箕子は朝鮮に入ると礼義を教え、耕作や養蚕を普及させ、「八条の教」を制定しました。「八条の教」とは簡単な法律のことで、「殺人は命で償う」「傷害は穀物で償う」「盗みを働いた者は、男はその家の奴とし、女は婢とする。金銭による贖罪は一人五十万銭とする」「婦人は貞信を守らなければならない」等の内容です。
箕子の政治によって、朝鮮では家の戸を閉めなくても盗賊に襲われることがなくなりました。


かつて呉に奔った太伯(太王亶父の子。王季の兄)は既に死に、子がいなかったため、弟の雍仲が継ぎました。雍仲も髪を切り、文身をして少数民族の風習に染まりました。
その後、仲雍が死んで子の季簡が立ち、季簡が死んで子の叔達が立ち、叔達が死んで子の周章が立ちました。
武王が諸侯を封じた時、太伯と仲雍の子孫を探して周章を得ました。周章は既に呉の主だったため、武王はそのまま呉に封じます。また、周章の弟・虞仲を周の北にある夏王朝の墟に封じて諸侯にしました。これを西呉といい、後世、虞国と称されました。

武王の弟・叔鮮が管に、叔度が蔡に、叔処が霍に封じられたと書きました。
武王は紂の子・武庚禄父に殷の遺民を率いさせました。しかし殷を平定したばかりだったため、武庚と殷の遺民の反乱を恐れます。そこで管叔鮮と蔡叔度に禄父を補佐させました。
また、殷の畿内を邶、鄘、衛の三国に分け、殷都東の衛は管叔に監督させ、西の鄘は蔡叔に監督させ、北の邶は霍叔処に監督させることになりました。これを「三監」といいます。
あるいは禄父が邶を、管叔が鄘を、蔡叔が衛を守って殷の遺民を監督したともいいます。この場合は禄父、管叔、蔡叔が三監になります。しかし三監は禄父と殷の遺民を監督するために置かれたものなので、禄父を三監の一人に数えるのは相応しくないと思われます。


こうして封侯が終わりました。以下、西周時代の主要国の姓と爵位を列記します。『世本 秦嘉謨輯補本』を参考にしました。
呉: 姫姓。呉太伯。子爵。
斉: 姜姓。姜尚呂尚。侯爵。
魯: 姫姓。周公・旦。侯爵。
北燕: 姫姓。召公・奭。伯爵。
蔡: 姫姓。蔡叔度。侯爵。
陳: 嬀姓。胡公満(虞満)。侯爵。
許: 姜姓。姜文叔。男爵。
杞: 姒姓。東楼公(姓名は伝わっていません。『世本』には爵位も書かれていません)
曹: 姫姓。曹叔振鐸。伯爵。
薛: 任姓。夏代の車正・奚仲、商代の賢臣・仲虺の子孫。初代は恐らく薛畛。侯爵。
滕: 姫姓。錯叔繍(武王の弟)。侯爵。
邾: 曹姓。邾侠(顓頊の子孫)。附庸(子爵の下)。邾侠の子孫が子爵に進められました。
莒: 己姓。己輿期(または「己茲輿期」。少昊の子孫)。子爵。
衛: 姫姓。康叔封。公爵。成王の時代に封侯されます。
宋: 子姓。微子啓。公爵。成王の時代に封侯されます。
晋: 姫姓。唐叔虞。侯爵。成王の時代に封侯されます。
楚: 羋姓。熊繹。子爵。成王の時代に封侯されます。
鄭: 姫姓。鄭伯友。伯爵。宣王の時代に封侯されます。

封侯は宗法制度と深い関係があります。下記御参照ください。

夏曾佑の『中国古代史』が清代・顧棟高の『春秋大事表五』を引用しています。周代の諸侯の一覧です。下記にて簡単に紹介します。


次回に続きます。