西周時代6 武王(四)

今回も西周武王の時代です。十二年が終わります。
 
[十一] 周公・旦が呂尚に聞きました「どのように斉を治めるつもりですか。」
呂尚が言いました「賢人を尊んで功績を貴ぶつもりです。」
周公が言いました「(功績を重視したら功臣の権力が大きくなり)後世、必ず簒弑の臣が現れるでしょう。」
そこで呂尚が周公・旦に聞きました「どのように魯を治めるつもりですか。」
周公・旦はこう答えました「尊ぶべきを尊び、親しむべきに親しむつもりです(親族と親しくするつもりです)。」
呂尚が言いました「(親族を重視したら本家がないがしろにされ)後世、弱体化するでしょう。」
どちらの予言も的中します。
 
呂尚が封国に就くため東に向かいました。しかし移動がゆっくりだったため、旅宿で会った人が言いました「時は得難く失いやすいと言います。この人はこのように安心して休んでいますが、国に就く者ではないのでしょう。」
それを聞いた呂尚は起きあがり、昼夜兼行して斉に向かいました。
黎明、営丘に到着しました。当時は周が天下の主となったばかりで遠方は不安定でした。営丘も莱侯(莱夷)の攻撃を受けています。呂尚は営丘に入って莱侯の侵攻を防ぎました。
 
呂尚は草を刈り、荒廃した地を開墾し、道を開いて人が住めるようにしました。賢人を尊び、功績がある者を賞して人材を集めます。
東海の居士・狂矞と華士の兄弟が言いました「我々は天子の臣とならず、諸侯の友とならず、自分で田を耕して食べ、井戸を掘って飲み、人に何かを求めることもせず、名声も俸禄も必要ない。仕官せず労働に励もう。」
呂尚は二人を捕えて殺してしまいました。
周公・旦が急いで使者を送り「二子は賢者です。なぜ殺したのですか」と問うと、呂尚はこう答えました「彼等は天子の臣にならないと言いました。それでは私が彼等を用いることができません。彼等は諸侯の友とならないと言いました。それでは彼等を使うことができません。自分で耕して食べ、井戸を掘って飲み、他の人に物を求めることがないのでは、賞罰によって規制することができません。名声も俸禄もいらないのなら、爵禄によって動かすことができません。賞罰爵禄の四者を用いても効果がないのなら、私が国君であるといえるでしょうか。たとえ賢者であっても、用いることができないのなら意味がありません。だから殺したのです。」
この話は『韓非子・外儲説右上』に詳しく書かれています。
 
斉の地は海に面しており、土地が痩せた塩地だったため、五穀が不足していました。人口もなかなか増えません。そこで呂尚女工を激励して紡績業を振興させ、漁業や塩業にも力を入れて他の地域に売るようにしました、その結果、人も物も斉に集まり、斉の冠、帯、衣服、履物が天下に流通しました。東海から岱山(泰山)の間に存在する諸侯が全て斉に朝見するようになります。
 
[十二] 武王は馬を華山の陽(南)に放ち、牛を桃林華山の東)の丘に放ち、干戈(武器)を府庫に収め、兵を解散させて戦争をしないことを天下に示しました。
 
[十三] 武王が九牧の君(九州の長)を集めて豳の丘に登り、商邑(朝歌)の方向を眺めて平安を祈りました。
周都に還った武王は不安で夜も眠れませんでした。『史記・周本紀』はこの時の周都を鎬京としています。すでに豊から鎬京に遷都したようです。
周公・旦が武王に不安の理由を聞くと、武王はこう言いました「天が殷の祀りを受けなくなったのは、今から六十年も昔、わしが産まれる前のことだ。その間、麋鹿(鹿の一種。または紂の時代に現れた神獣・夷羊)が郊野で遊び、蜚鴻蠛蠓。害虫の一種)野を満たした。殷の天を祀らなかったおかげで、今我々は王業を完成することができたのだ。しかし殷も建国したばかりの時には賢者を三百六十人も用いたという。後になって賢者を顕彰せず、不賢の者を除くこともなくなり、滅亡に至った。わしはまだ天命を安定させたわけではない。休んでいる暇はない。」
武王が続けました「天命を保定して天室(宮室)に住み、悪を追及して殷王受(紂)と同じ罪を与えよう。日夜、努力してわが西土を安定させ、わが事業と徳を四方に明らかにしてやっとゆっくり休むことができる。」
更に武王は天室建設について語りました「洛汭(洛水が曲がる場所)から伊汭(伊水が曲がる場所)までは地形が平坦で険しい所がない。そこは夏の都があった場所だ。わしは南の三塗と北の嶽鄙に望み、顧みて黄河を眺め、雒水(洛水)と伊水を観察したが、まさに天室と呼ぶにふさわしい場所だった。」
武王は雒邑洛邑に赴いて都の建設を指示し、鎬に戻りました。
雒邑は武王の子・成王の時代に完成し、周の東都になります。
尚、鎬京は諸侯が宗したため、「宗周」といいます。「宗」は「敬う」または「朝見」の意味です。
 
『帝王世紀』には「周の徳が興隆し、草木が茂盛した。そこで蒿を切って宮室とし、蒿室と名付けた」という記述があります。これがいつ、どこで起きた事かはわかりません。
 
[十四] 武王が管で狩猟を行いました。旧殷の地を確認することが目的だったと思われます。
 
[十五] 武王が周公・旦に命じて『大武』の楽を作らせました。『大武』は武王の功績を称える音楽です。
 
 
 
次回で武王の時代が終わります。