西周時代7 武王(五)
今回で西周武王の時代が終わります。
十三年
そこで太保・召公・奭が武王を戒め、『旅獒』を書きました。武王の徳が遠方に伝わり、四方から貢物が献上されているが、それらは異姓の諸侯に分け与えていつまでも周王室に対する忠誠を忘れさせないようにしなければならない。同姓の諸侯には珠玉を与えて親情を示す必要がある。珍宝を求めなければ民が豊かになる、という内容です。
『旅獒』は『尚書』に収録されています。
[二] 巣伯が来賓しました。
『尚書』に巣伯が来朝したため、芮伯が『旅巣命』を作ったとありますが、伝わっていません。
[三] 『竹書紀年』(今本)によるとこの年(十三年)に武王が殷で捕えた王士百人を太廟に捧げました。しかしこれは恐らく武王が商を滅ぼした年(十二年。既述)のことです。
[四] 『竹書紀年』(今本)によるとこの年に武王が諸侯を封侯しました。しかしこれも恐らく前年の出来事です。
[五] 武王が病に倒れました。『史記・魯周公世家』からです。
武王が殷(商)を滅ぼして二年後、天下がまだ安定していないのに武王が病に倒れてしまいました。群臣は不安になり、太公(呂尚)と召公(奭)が文王廟で卜をしようとします。しかし周公・旦がこう言いました「我々の先王を憂いさせるべきではありません。」
周公は自らを質(犠牲)にすることを卜うため、三つの祭壇を造らせました。準備が整うと、周公は璧圭を持って北向きに立ち、太王・王季・文王の三王に対する祈祷を始めました。史官が文書を読み上げます「汝等の元孫(長孫)である王・発は、勤労によって疾(病)を得た。もし汝等三王が天に子を捧げる必要があるのなら、旦の身をもって王・発に代えよ。旦は巧能(能力があること)にして多才多芸で、よく鬼神に仕えることができる。王・発は旦の多才多芸に及ばず、鬼神に仕えることができない。また、王・発は帝庭(天帝の庭)で命を受けて四方に道を施さなければならない。それによって、汝等の子孫は下地(地上)で生存でき、四方の民も畏敬するようになる。王・発は天から降された宝命を失うことなく、我が先王も永遠に宗廟で祭祀を受けることができる。今、私は元亀(大亀。卜で使う亀)によって三王の命を聞くつもりだ。もし私が身代わりになることに同意するなら、璧圭を捧げて汝等に仕えよう。もし同意しないようなら、璧圭を捧げることはできない。」
祈祷が終わってから、周公は史官に策書を作らせ、自分が武王の身代わりになることを三王に告げてから卜を行いました。卜人は皆、「吉」と言います。占兆の書を見て確認しても「吉」とありました。
喜んだ周公は入宮すると武王を祝賀して言いました「王に害はありません。旦が三王の命を受けました。王は長終(周朝の長久)だけを考えてください。先王は予一人(天子。武王)のことよく考慮されています。」
周公は策書を金縢の匱(金の紐で縛った箱)に入れて密封し、他言を禁じました。
翌日、武王が回復しました。
『尚書』に『金縢』という文書があり、この出来事が記されています。
[六] 秋、大豊作(大有年)でした。
十四年
[一] 『竹書紀年』(今本)はこの年(十四年)に武王が病になったとしています。しかし『尚書・金縢』には武王が商を滅ぼして二年目(既克商二年)のことと書かれているので、前年(十三年)の出来事のはずです。
十五年
[一] 武王が九夷八蛮との道を開き、各地が貢物を納めるようになりました。
粛慎氏が来賓し、楛矢石砮(楛木の矢と矢じり)を献上しました。その長さは一尺八寸あります。武王は矢に「粛慎氏之貢矢」という銘文を刻み、異姓の諸侯に分け与えました。周の徳が遥か遠方まで届いたことを天下に示し、後世に至っても各地の諸侯による周への忠誠を忘れさせないためです。同姓の諸侯には珍玉を与えて親しみを示しました。
[二] 武王が始めて方岳で狩りを行い、沬邑で『誥』を作りました。沬邑は旧殷の地で、後に衛の国が建てられます。
『酒誥』は殷紂が酒に溺れ淫楽に浸って国を乱し、民を苦しめ、最後は滅亡を招いたことを教訓とし、祭祀や特別な時以外に臣民が飲酒することを禁止した内容が書かれています。恐らく中国の史書に登場する最初の禁酒令です。
[三] 冬、九鼎を洛邑に遷しました。
十六年
[一] 朝鮮の箕子が来朝しました。
箕子が鎬京に入朝する時、殷の廃墟を通りました。宮殿は破壊され、禾や黍(きび)が生え放題になっています。箕子は声をあげて泣こうとしましたが、周に憚ってできません。声を殺して泣くのも婦人のようでできません。そこで『麦秀の歌』を作って言いました「麦は秀でてみるみる育ち、禾黍も盛んに伸びている。あの狡賢い童(紂)がわしと不仲で諫言を聞かなかったためにこうなってしまった(麦秀漸漸兮,禾黍油油兮。彼狡童兮,不与我好兮)。」
殷民はこれを聞いて涙しました。
[二] 秋、王師が蒲姑を滅ぼしました。蒲姑は東方の国です。成王の時代に滅ぼされたともいいます(再述します)。
十七年
『逸周書・武儆解』によると、武王の十二年四月に武王が周公・旦に命じて後嗣を決めさせ、太子になった誦に勤勉でありつづけるように忠告したとあります。
冬十二月、武王が鎬京で死にました。
在位年数十七年というのは『竹書紀年』(今本)の記述で、諸侯(西伯)だった時の年数を含みます。
武王の寿命を『竹書紀年』の「今本」は九十四歳としていますが、「古本」では五十四歳(版本によっては「四十五歳」ですが、恐らく誤りです)となっています。
『資治通鑑前編』も武王の在位年数を十九年としています。
『帝王世紀』は「十年冬に武王が鎬で死に、岐に葬られた」としています。寿命は九十三歳です。
『帝王世紀』にはこうも書かれています「武王が位を定めた元年は乙酉の年で、六年庚寅に死んだ。」
位を定めた元年(帝位元年)というのは殷を滅ぼした年です。『帝王世紀』は武王が文王を継いで四年目に殷を滅ぼしたと書いており(武王十二年参照)、その年が乙酉にあたります。それから六年後(庚寅)に武王が死んだとしているので、上に書いた「十年冬」というのは、諸侯だった四年を含む在位年数になります。