西周時代8 成王(一) 周公摂政 三監の乱

今回から西周成王の時代です。
 
 
成王
武王が死んで子の成王が継ぎました。名は誦です。
 
 
元年 丁酉。または丙戌。
[一] 春正月、成王が即位しました。
しかし成王はまだ幼く、天下もまだ不安定だったため、周公・旦(武王・発の弟)が諸侯の反乱を恐れました。そこで冢宰(宰相)になった周公・旦が成王の代わりに摂政することになりました。王座に座って南面し、諸侯の謁見を受け、百官を統率します。周公・旦が正式に王位に即いたという説もあります。
 
庚午、周公・旦が皇門(左閎門)に諸侯・群臣を集め、身を正して王室を守るように戒めました。『逸周書・皇門解』に詳しい記述があります。
 
[二] 夏六月、武王を畢に埋葬しました。
 
[三] 秋、成王が元服しました。恐らく十三歳前後です。
周公・旦が祝雍(または「史雍」)に命じて成王を祝わせました。但し周公・旦は祝雍にこう言いました「言辞は意に達し、しかも多くを言う必要はない(辞達而勿多也)。」
祝雍が成王に言いました「民に近づき、佞臣を遠ざけ、義に近づき、時を大切にし、財を恵み、賢人を用いて、能力有る者を使うべきです(近於民,遠於佞,近於義,嗇於時、恵於財,任賢使能)。」
この後、周公・旦は成王と共に祖廟を参拝し、成王の存在を天下に示すために諸侯の謁見を受けました。
 
[四] 周公・旦が政権を握ったことに弟の管叔鮮等が不満を持ちました。
管叔鮮、蔡叔度、霍叔処が噂を流します「周公は将来、孺子(幼児。ここでは成王)の不利になるだろう(周公・旦が王位を簒奪するつもりだ)。」
 
同じ頃、奄国の君主が武庚禄父に言いました「これは百世の好機です。兵を挙げましょう。」
禄父は商王朝最後の王・紂の子で、殷民を治めています。奄国の誘いに応じることにしました。
 
一方の周公・旦は太公・呂尚と召公・奭にこう伝えました「私が天下の猜疑を恐れずに摂政を行うのは、天下が周に背くのを心配しているからだ。そうなったら先王に報いることができない。太王(亶父)、王季(季歴)、文王(昌)が天下を憂いて尽力し、今やっとその功績を成就させることができた。しかし武王は早逝し、新王はまだ幼い。周の業を完成させるために王に代わって政治を行っているのだ。」
 
管叔鮮と蔡叔度はついに武庚を擁して挙兵し、奄や淮夷(奄の南と連絡をとりました。こうして三監(管叔・蔡叔・霍叔)の乱が始まります。
 
周公・旦は天下の猜疑を避けるため、西周の首都・鎬京を出て東方(恐らく洛邑に住みました。
この時、周公・旦は『鴟鴞』という詩を作って成王に自分の気持ちを伝えたといわれています(『尚書・金縢』等。『史記・魯周公世家』は東方の叛乱を平定してから周公が『鴟鴞』の詩を作ったとしています。しかし『詩経・豳風』に収録されている『鴟鴞』を見ても周公・旦の心情をうかがえるような内容ではありません。同名で内容が異なる詩が複数存在していたのかもしれません。
なお、鴟鴞とはフクロウの意味で、しばしば凶悪な人物の比喩に用いられました。
 
 
二年
[一] 奄人、徐人および淮夷(『逸周書・作雒解』では「熊盈」)が邶に入って挙兵しました。
 
[二] 秋、豊作になりましたが、収穫前に大風と雷電が襲い、穀物が全て倒されてしまいました。成王も国人も皆驚き恐れます。
 
この頃、成王も周公・旦を疑っていたようです。
ある日、成王はかつて周公・旦が隠した金縢(金の帯で縛った箱。武王十三年)を見つけて中に隠された文書を読みました。それは周公・旦が病にかかった武王の身代わりになるために書いた祈祷の文でした。成王が史官や官員に確認すると、官員達は「真実です。公は私達に口止めをしていました」と答えました。
成王は書を抱いて泣き、「周公は王室に勤労であったのに、未熟な朕はそれを理解できなかった。今、天が威を動かして周公の徳を明らかにしている。朕自ら迎えに行かなければならない」と言うと郊外まで出ていきました。
すると天は雨を降らせ、風向きも変わりました。成王は臣民に命じて大風にとばされた大樹を取り除き、穀物を植え直します。農地が復旧され、この年は大豊作になりました。
 
成王は東方に去った周公・旦を郊外で迎え入れ、殷(禄父と三監)討伐を任せました。
 
金縢に関しては『今本竹書紀年』『尚書』『史記』に記述があります。上述の内容は主に『今本竹書紀年』を参照しました。
史記・魯周公世家(巻三十三)』は三監の乱ではなく、成王が既に成長した時のこととして金縢の故事を紹介しています。それによると、周公・旦が死んだ年の秋、暴風や雷のために農作物が被害を受けました。恐れた成王は周公・旦が隠していた金縢を開いて祈祷の文を見つけます。成王は周公・旦の忠心に感動し、「天が威を発して周公の徳を明らかにした。天の意思を迎え入れなければならない」と言って郊外に出ました。すると雨が降り、風向きが変わり、この年は豊作になりました。
 
『魯周公世家』はもう一つ同じような話を載せています。
成王が幼い頃、病にかかりました。周公・旦は自分の爪を切って黄河に沈め、神に告げました「王はまだ幼く見識がありません。神命に逆らうことがあったとしたら、それは旦の責任です。」
同時に祈祷の文書が官府に秘蔵されました。やがて成王の病は完治します。
後に成王が自ら政治を行うようになると、ある人が周公・旦を讒言しました。周公・旦は楚に亡命します。
しかし後日、成王が官府を開いて隠されていた祈祷文を読みました。成王は感動して涙し、周公・旦を迎え入れました。
 
[三] 周公・旦が天下に東征を宣言する『大誥』を作りました。『尚書』に収録されています。
東伐を開始した周公・旦は召公・奭を送って斉太公・呂尚に命じました「東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至るまでの五侯九伯が罪を犯したら、汝が討伐せよ。」
この後、斉は征伐の権限をもつ大国になっていきます。
 
 
三年
[一] 王師(朝廷軍)が殷を滅ぼし、武庚禄父を誅殺しました。これは『史記』等の記述です。『逸周書・作雒解』は「王子禄父は北奔した」としています。
 
管叔鮮も商で誅殺され、蔡叔度は郭隣に放逐されました。蔡叔度は車十乗(または七乗)と徒(従者)七十人が与えられ、郭隣で生涯を終えました。
霍叔処は爵邑を奪われ、三年間、庶人として暮らすことになりました。
こうして三年にわたる「三監の乱」が終息しまた。
 
周公・旦は殷の民を二つに分けました。
ひとつは紂の兄で賢人として知られていた微子啓(または「微子開」)が統治します。微子啓は陶唐氏の火正・閼伯の墟である商丘に封じられました。閼伯は火神として商の人々に崇められていました。
微子啓の国を宋といいます。殷の祭祀を継ぎ、先王(商代の王)の礼楽を用いることが許されました。周は宋を臣下ではなく客とみなし、祭祀を行ったら膰(祭祀で用いる肉)を宋に贈り、宋で葬儀があったら弔問しました(または周で葬事があった時、諸侯が弔問しても周の天子はいちいち答礼する必要がありませんでしたが、宋が弔問した時は周の天子自ら答礼しました)
周公・旦が『微子之命』(または『封命之書』)を書きました。微子啓が成湯の美徳を継いだことを称え、周に忠誠を誓って諸国の見本になるように命じる内容です。『尚書』に収録されています。
微子啓は仁徳が厚く、殷民に愛されました。
 
殷民の残りは衛に遷されました。衛は黄河と淇水の間で商王朝の故地になります。康叔封(武王の弟)が衛に封じられ、殷民七族を治めることになりました。殷民七族というのは陶氏、施氏、繁氏、錡氏、樊氏、氏、終葵氏です。『春秋左氏伝・定公四年』に出てきます。
 
周公・旦は康叔封がまだ若いため、こう言いました「必ず殷の賢人、君子、長者を求めて、なぜ殷が興隆し、なぜ殷が滅亡したのかを問いなさい。そのうえで民を愛しなさい。」
周公・旦は紂が酒に溺れて滅び、婦人の言を聞いて国を乱したことを教えました。
また、梓材(良木)を用いて君子の法則を教えました。
こうして康叔封を戒める『康誥』『酒誥』『梓材』が作られました。全て『尚書』に収録されています。
但し、『竹書紀年』(今本)と『資治通鑑前編』は『酒誥』を武王時代(武王十五年)のこととしています。
 
康叔封も殷民を集めて善政を行ったため、民に喜ばれました。
 
後に周公・旦の季弟(末弟)の季戴が聃(冄)に封じられました。
 
周公・旦は平定した東土の民衆からも慕われたため、東土を去る時に人々は「九罭」という詩を作って別れを惜しんだといいます。詩にはこうあります「無以我公帰兮,無使我心悲兮(我々の周公を帰らせないでくれ。我々の心を悲しませないでくれ)。」
「九罭」は『詩経・国風』の『豳風』の一部です。
 
また、同じく『詩経・豳風』に収録されている『東山』という詩は、東征した周公・旦が凱旋する時に作った将兵を慰労する詩だといわれています(この他にも、帰還する兵士が書いた詩、周公・旦を称賛するために本国の大夫が作った詩という説もあります)
 
叔虞(成王の弟。後述)嘉穀嘉禾。二つの苗が一つの穂を結んだめでたい穀物を得て成王に献上しました。成王は叔虞に命じて周公・旦にそれを送らせます。遠征中の周公・旦は東土で禾を受け取り、天子の命を軍中に伝えました。『尚書』に叔虞が嘉穀を得たことを書いた『帰禾』と、周公・旦がそれを受け取り天子の命を軍中に伝えたことを書いた『嘉禾』が収録されていたようですが、今は伝わっていません。
 
[二] 周が奄を討伐しました。
 
[三] 周が蒲姑を滅ぼしました。
蒲姑は武王にも滅ぼされています(武王十六年)。一度は復国したのに奄人等と共に叛したため、また滅ぼされたのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。