西周時代9 成王(二) 東都建設

今回は西周成王の時代の続きです。
 
四年
[一] 春正月、成王が始めて宗廟を参拝しました。
これは『竹書紀年』(今本)の記述です春正月,初朝於廟。『逸周書・嘗麦解』は孟夏(四月)に始めて宗廟を祈祷したとしています。
 
[二] 夏四月、成王が太祖・文王の廟に新麦を奉納しました。
 
[三] 成王と周公・旦が軍を率いて淮夷を討ち、奄を破りました。
東土が安定し、諸侯が再び周に朝見するようになりました。
 
かつて商王朝は象を訓練して東夷で暴虐を行っていました。殷民(禄父等)周王朝に背くと、周公・旦は殷民を駆逐し、追撃して江南まで至りました。東夷から象の被害がなくなります。その功徳を称えて「三象」という舞楽が作られました。
これは『呂氏春秋・仲夏紀・古楽篇』に書かれています。
 
 
五年
[一] 春正月、遠征中の成王は奄にいます。
奄の君を蒲姑に遷しました。
 
[二] 夏五月丁亥、成王が奄から宗周(鎬京)に還りました。天下の諸侯に天命が周にあることを宣言する多方』を作りました。『尚書』に収録されています。
 
平定した殷民を洛邑に遷しました。洛邑は東都建設が予定されている場所です。
 
 
六年
[一] 成王が岐山の陽(南)で大蒐を行いました。「蒐」というのは狩猟の意味ですが、軍事訓練を目的としています。
 
[二] 周公・旦が明堂で諸侯の朝見を受けました。
朝廷の官員を整理し、礼楽を制定して、周の度量を公布しました。天下がそれに服しました。
 
周公・旦は使者を各地に送りました。遠方の民で衣食が足りず飢えや寒さに苦しんでいる者、訴訟が不公平で冤罪を訴えている者、才能が有るのに用いられていない者を探すためです。使者が朝廷に還ると周公・旦はその地の君主を招き、礼をもって問いただしました。君主は自国に帰り、大夫に周公の言を伝えて政治を改めさせます。百姓(民衆)はこれを聞いて喜び「深遠な場所(皇宮)に住んでいるのに我々をこのようにはっきりと見ている。欺くことはできない」と言いました。
 
[三] 交趾の南に越裳氏がいました。その国君が使者を周に送りました。使者は何度も通訳を重ねて鎬京に至り、白雉を献上します。
周公・旦が使者に言いました「恩沢が加えられなければ君子はもてなしをすることなく、政治が行き届かなければ君子はその人の臣とならないという。なぜわしに貢物を贈ったのだ。」
使者が言いました「私は国の黄耇(老人)の命を受けてきました。天に烈風長雨がなく、海に波が立たなくなって既に三年も経ちます。中国に聖人が現れたからでしょう。」
周公・旦はこれを成王の功績とみなし、白雉を宗廟に供えました。
使者が帰国する時、路に迷ったため、周公・旦は常に南を指す装置がついた輧車(囲いがある車)五乗を与えました。使者はそれに乗り、扶南、林邑の海岸を通って、一年をかけて帰国しました。
この後、天子の行列は指南車が先導するようになりました。遠方の者も天子に服し、四方が正されていることを表すためです。
 
 
七年
[一] 成王が成長したため、周公・旦が政治を返しました。今まで南面(南に向かって座るのは天子の特権です)て群臣に指示を出していた周公・旦が北面して群臣の位に就きました。

これは『竹書紀年』(今本)を元にしました。『史記・周本紀』も東都建設開始前に書いています。
しかし『資治通鑑外紀』はこの年(七年)十二月(東都建設開始後)に政権を返還したとしており、『史記・魯周公世家』も東都建設の後に書いています。

尚、『資治通鑑外紀目録』には周公の摂政期間が「十年」と書かれていますが、恐らく「七年」の誤りです。

春二月乙未朝、成王が鎬京から歩いて豊に入りました。
 
[二] かつて武王は鎬京に邑を作って宗周としました。西都です。その後、東都の建設を計画しましたが、完成前に死にました。成王は武王の志を継いで東都を建設し、鼎を陝に定めることにしました。
そこで卜を行うと、三十世・七百年続くと出ました。
 
三月戊申、太保・召公・奭が洛に入って新邑の調査をしました。
甲寅、宮殿等を立てる場所が確定されます。
乙卯、周公・旦が洛に入って再び卜い、洛の地を観察しました。周公・旦が言いました「ここは天下の中心だ。四方から入貢される道のりが均しい。」
丁巳、南郊で天を祀りました。
戊午、新邑で地を祀りました。
 
甲子朝、周公・旦が殷民や各国の諸侯に洛邑建設を命じました。殷民が大動員され、東都建築が始まります。
 
[三] 成王が建設中の東都に入り、殷の遺民を洛邑に定住させました(成王五年にも殷民の移住を命じています。五年に政令が発布され、この年に実施されたのかもしれません)
周公・旦が殷民に成王の命を告げて『多士』を作りました。洛邑に移住した殷民に忠誠を誓わせ、新しい土地で子子孫孫発展させることを命じる内容です。『尚書』に収録されています(『史記・魯周公世家』も『多士』を引用していますが、『尚書』と内容が異なります。次回、再述します)
 
(十一月か十二月)戊辰、成王が東都で(冬の祭祀)を行いました。騂牛(赤牛)が犠牲として文王と武王に捧げられます。
この時、各地の諸侯が東都に来朝しました。
詩経・周頌・清廟』には「済済多士,秉文之徳(多くの官員が集まり、文王の徳を慕い守っている)」等とあり、文王を祀る様子が描かれています。周公・旦が文王の徳を称えるために作ったといわれています(周武王、成王や後の昭王によって作られたという説もあります)
成王は周公・旦に洛邑の統治を委ねることを天下に宣言しました。
 
十二月、成王が周公・旦を洛邑に留めて鎬京に還りました。
この後、成王は西都に住み、諸侯の朝会(謁見)は主に東都で行うようになりました。
 
[四] この年、周王の祖先・高圉の廟を建てました。高圉は后稷の業を継いだ者として、周人に祀られました。
 
 
 
次回に続きます。