西周時代14 康王 成康の治
今回は西周康王の時代です。
康王
成王が死に、子の康王が即位しました。名は釗です。
元年 甲戌。または癸亥。
[一] 春正月、康王が即位しました。
冢宰・召公・奭に百官を統べさせました。
諸侯が豊宮(鄷宮)で康王に朝見しました。
魯侯・伯禽、唐侯・燮(唐叔虞の子)、斉侯・呂伋、衛康伯・牟(康叔封の子)、楚子・熊繹が康王に仕えて補佐しました。
三年
[一] 楽歌を定めました。
[二] 先王(成王)の吉禘を行いました。吉禘というのは死者を宗廟に入れて祀る儀式です。吉禘の後、喪が解かれます。
農官(農業を主管する官)に政務を全うするよう命じ、廟に報告しました。
六年
九年
[一] 唐国の南に晋水が流れていたため、唐侯・燮が国号を晋に改めました。この後、晋侯と称します。
または唐という場所から晋という場所に遷ったともいわれています(『今本竹書紀年』には「唐遷于晋」とあります)。
晋の宮殿が壮麗すぎたため、康王が人を送って譴責しました。
十二年
洛邑に遷された殷民はもともと周公・旦とその子・君陳が治めていましたが、君陳が死んだため、畢公・高に統治を委ねたようです。
康王は畢公・高に殷民の統治の重要性を説き、高圧的でも柔弱でもない政治を行って民を教化し、利益をもたらすように諭しました。この内容は『尚書・畢命』に書かれています。
[二] 秋、毛国の懿公が死にました。懿公は文王の庶子・毛叔鄭です。
十六年
[二] 康王が南に巡狩し、九江の廬山に至りました。廬山の西南に康王谷という場所があるそうです。
[三] 魯侯・禽父(伯禽。周公・旦の子)が死にました。
『竹書紀年』(今本)は「康王十九年」のこととしていますが、恐らく誤りです。『漢書・律歴志下(巻二十一)』には、魯公・伯禽の在位年数は四十六年で、康王十六年に死んだとあり、『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』も康王十六年のこととしています。
伯禽の死後、子の考公・酋(または「就」「遒」)が立ちました。
二十年
[一] 魯の考公・酋が在位四年で死に、弟の熙(または「怡」)が立ちました。これを煬公といいます。
二十一年
[一] 魯の煬公が茅闕門を造りました。この年は煬公元年にあたります。
「茅闕門」は「第闕門」「夷闕門」とも書かれる、魯国の宮殿の門です。
周公・旦と伯禽は曲阜に封じられて魯国を建国しましたが、実際には曲阜から離れた場所を魯の都としており、煬公の時代になって曲阜に建都したという説があります。煬公が茅闕門を造ったというのは、煬公の代になって曲阜を魯の都にしたということを意味するのかもしれません。
伯禽の時代に淮夷や徐戎の抵抗を書きました(成王八年)。異民族の抵抗は長い間続いており、煬公によってやっと平定されたため、曲阜を都にした可能性もあります。
二十四年
[一] 召公・奭(康公)が死にました。
『資治通鑑外紀』によると、召公は周公・旦の兄で、百八十歳で死んだという説もあります。
召公・奭は西方(陝以西)を治めて民心を得ました。
ある時、官員が民を政府に集めるように進言しました。民衆の状況を把握するためのようです。しかし召公・奭はこう言いました「自分の一身を煩わせることなく百姓を煩わせるのは、先君である文王の志に背くことである。」
そこで召公・奭は郷邑を巡行し、農地や丘陵で民の声を聞き、棠樹の下に廬(小屋)を建てて住み、そこで訴訟や問題を解決していきました。農耕や養蚕が忙しい時期になると囚人を牢獄から出して本業に帰らせました。
召公・奭の政治のおかげで陝西では侯伯から庶人に至るまで、多くの人が安定して生活できるようになりました。
召公・奭は死後、康公と諡されました。
人々は康公の政治を懐かしみ、棠樹を伐ることなく、『甘棠』という詩を作って語り継ぎました。『甘棠』は『詩経・召南』に収録されています。
二十六年
[一] 秋九月己未、康王が死にました。『資治通鑑外紀』によると五十七歳でした。
成王と康王の時代は天下が安定し、治安が改善され、四十年にわたって刑罰を用いる必要がなかったといわれています。この時代は「成康の治」と称されています。
[二] この年、魯の煬公が死に、子の幽公・宰(または「圉」)が立ちました。
次回は昭王の時代です。