西周時代15 昭王 南征失敗

今回は昭王の時代です。
 
昭王
康王が死んで子の昭王が立ちました。名は瑕です。
昭王の時代は王道が欠けて徳が衰えました。
 
 
元年 庚子。または己丑。
[] 春正月、昭王が即位しました。
 
[] 成王の時代(二十一年)「治象(明文化された法令)」が廃されました。しかし昭王は治象を恢復させ、宮闕(宮殿の門)に掲げました。
昭王が法令を恢復させたというのは、「成康の治」が終わり、周王朝が衰え、世の中が不安定になり、治安が悪化したため、長い間用いる必要がなかった刑法が必要になったことを意味します。
 
 
六年
[] 昭王が郇伯(郇侯。文王の子)に命を下して政治を行わせました。
詩経・曹風』の『下泉』に「四国有王,郇伯労之(四方の諸侯が天子に朝見し、郇伯がそれを労う)。」とあります。
郇伯が朝廷で重要な地位にいたことが分かります。
 
[] 冬十二月、桃李が花を開きました。
桃は春、李は春から初夏にかけて花を咲かせるものなので、冬十二月の開花は異変でした。
 
 
十四年
[] 夏四月、恒星が見えなくなりました。
 
[] 秋七月、魯の幽公・宰が弟・沸(または「弗」「㵒」に殺されました。幽公十四年の出来事です。
沸が自ら魯公の位に即きました。これを魏公(または「微公」)といいます。
諸侯の国で主君が殺されても周王室は討伐をしませんでした。昭王の治世が乱れていたことを示す事件です。
 
 
十六年
[] 昭王が南に巡狩しました。目的は楚の征伐です。漢水を渡って大兕(牛や犀に似た水獣)に遭いました。
 
 
十九年
[] 春、夜なのに星が照らして明るくなり、五色の光が紫微星(帝星。北極星を貫きました。
井水が溢れ出るという異変もありました。
 
[] 祭公と辛伯が楚に遠征した昭王に従っていました。
呂氏春秋・季夏紀・音初篇』によると、昭王が荊蛮に親征した時、背が高く膂力が強い辛餘靡が車右(馬車の右側に乗る衛士)を務めました。昭王が帰還して漢水に至った時、橋(恐らく舟を連ねた浮橋)が落ちたため昭王と祭公が漢水に落ちてしまいました。辛餘靡は昭王を助けて漢水の北岸に運び、再び川に戻って祭公も助けました。
昭王は辛餘靡を西翟に封じて諸侯にしました。翌年(穆王元年)に再述します。
 
この事件を『帝王世紀』はこう書いています。
昭王が南征して漢水を渡りました。楚人は昭王を嫌っていたため、膠船(釘を使わず膠で付け合わせた船)を昭王に進めます。昭王が船に乗って中流に至ると、膠が溶けて船が分裂しました。
『帝王世紀』にも車右・辛游靡が泳いで昭王を助けに行ったとありますが、昭王と祭公は水に没して死んだ(没于水中而崩)とも書かれているので、辛游靡の救出は間に合わなかったようです。もしくは昭王を漢水の岸まで運んだものの、暫くして死んでしまったのかもしれません。
 
周軍の遠征中、突然、空が暗くなりました。『竹書紀年』(今本・古本)は「天大曀」と書いており、これを「日食」とする説もあります。
また、「雉兔皆震(雉や兔が皆震えた)」という記述もあります。天が暗くなって動物達が恐れたと考えられますが、「地震」と解釈することもあります。
昭王が率いる周の六師(六軍)漢水で全滅しました。
六師が全滅した原因は、昭王と共に橋から落ちたのか、船が沈んだのか、楚軍に敗れたのか、はっきりしません。
いずれにしても、昭王の南征は六師を全滅させ、昭王自身も死亡するという大失敗に終わりました。
 
昭王の在位年数を十九年とするのは『竹書紀年』(今本)です。『帝王世紀』『資治通鑑前編』は在位五十一年としています。『資治通鑑外紀』も在位を五十一年としていますが、一説として在位二年、三十五歳と書いています。
 
周王室は昭王の死(遠征して死ぬという不祥事)を諱んだため、諸侯に知らされませんでした。
周王朝はこの後、大きく衰退します。
 
[] 昭王はかつて房国の娘(房后)を娶りました。房后は太子・満を産みます。
昭王が死んだため、太子・満が跡を継ぎました。これを穆王といいます。
資治通鑑前編』は昭王二年に太子・満が産まれたとしています。
 
[] 『資治通鑑前編』は昭王二十年庚戌の年に釈氏(釈迦)が産まれたとしています。『周書記異』という書には昭王二十二年に釈氏が産まれたとあるようです。
 
 
 
次回から穆王の時代です。