西周時代16 穆王(一) 犬戎征伐 造父

今回から穆王の時代です。三回に分けます。
今までと同じく、在位年数は主に『竹書紀年』(今本)を参考にしました。『資治通鑑前編』は異なる年数を用いていますが、併記すると繁雑になるので、別途年表にまとめます。
 
 
穆王
昭王が死んで子の満が立ちました。これを穆王といいます。「繆王」と書かれることもあります。
 
 
元年 己未。または庚辰。
[] 春正月、穆王が即位しました。
この時、穆王は既に五十歳でした。四十歳過ぎという説もあります。
当時は周王朝の政道が衰微していました。
穆王は文王・武王の道が損なわれていることを憂いて臣下の伯太僕(または「太僕正」。穆王が置いた官。衆僕の長。中大夫)に任命し、繰り返して国政について訓戒しました。その内容は『尚書命』に記載されています。
は「伯冏」とも書かれます。『帝王世紀』は「伯嬰」としていますが。「伯」の誤りです。
 
また、君牙(または「君雅」)を大司徒に任命し、先王の法典に則って正しく政治を行うように命じました。
 
穆王が二人に訓戒した内容は、『尚書』の『冏命』『君牙』に書かれています
資治通鑑前編』はこれを穆王三年のこととしています。
 
史記・周本紀』によると、穆王の即位によって天下は再び安定を恢復したようです。
 
[] 穆王が昭宮を造りました。
 
[] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、穆王が辛伯・餘靡に命を下しました。餘靡とは昭王を漢水で助けた勇士・辛餘靡です(昭王十九年)。穆王の代になって命を受け諸侯に封じられたようです。
 
[] 冬十月、穆王が南鄭に祇宮を築きました。
『竹書紀年』(今本)には「西周武王から穆王まで既に百年の年月が経過した。穆王以降は西鄭を都とした」とあります。西鄭と南鄭は同じ場所だと思われます。但し、穆王の孫の懿王の代には「鎬から犬丘に遷都した」という記述もあるので、鄭(南鄭・西鄭)を都にしたのは穆王一代のことのようです。
祇宮は圻内都城から千里以内の地)に建てられた遊観の宮殿ともいわれています。
 
 
六年
[] 春、徐子誕が西周に来朝しました。穆王は徐子誕を東方の伯に任命しました。ここでいう伯というのは伯爵ではなくて諸侯の長です。徐子誕は徐という国の君主で、恐らく「徐子」の「子」は「子爵」を意味します。
 
 
八年
[] 北唐が来賓し、驪馬(黒馬)一頭を献上しました。北唐は西北に住む戎族の国です。この馬が騄耳という名馬を生みました。
 
 
九年
[] 穆王が春宮を築きました。
穆王は春宮と鄭宮(恐らく穆王元年に建てた南鄭の祇宮)とよばれる宮殿に住みました。
 
 
十一年
[] 穆王が祭公・謀父を卿士に任命して政治を行わせました。祭は畿内の国で、謀父は祭公の字です。
 
 
十二年
[] 穆王が犬戎を征伐しようとしましたが、祭公・謀父が諫めて言いました「先王(先祖)は徳を四方に輝かせ、武威を示そうとはしませんでした。兵は非常のときに動かすから威力を発揮できるのです。みだりに動かしたら人々は武力に慣れてしまい、恐れなくなります。だから周文公(旦)が作った頌にはこうあります『干戈を収めて弓矢を包み、美徳を求めて夏(中華)にゆきわたらせよう。先王はこうして美徳を保たれた(載戢干戈,載櫜弓矢,我求懿徳,肆于時夏,允王保之)。』先王は民に対して徳を正し、性情を敦厚にさせ、財物を富ませ、器具を便利にし、利害の方向を明らかにしてきました。文徳によって民を治め、民が利を求めて害を避け、徳になついて威を恐れるようにさせたため、代々国を保って大きくすることができたのです。昔、我々の先王は后稷(農業を掌る官)を勤めて虞(舜)や夏に仕えてきました。しかし夏が衰退すると太康の時代)稷官が廃されたため、先王・不窋は官を失い、戎狄の間に住むようになりました。それでも業を怠ることなく、祖先の徳を受け継ぎ、教訓や典法を整理し、朝から晩まで勤勉を忘れず、敦厚篤実を守って忠信に努めてきました。その後も代々徳を継承し、前人后稷・弃)を辱めませんでした。文王・武王の代になると前代の光明をますます明らかにし、更に慈と和を加え、神に仕えて民を安んじたため、天下が喜びました。商王帝辛(紂)は民に大悪をなしたため、庶民は堪えることができず、武王を奉戴して商牧牧野)で戦いました。これは先王が武に努めた結果ではありません。民を憐れみその害を除いたからです。先王の制によれば、邦内畿内は甸服、邦外は侯服、侯衛は賓服、夷蛮は要服、戎翟は荒服といいます。甸服は『祭(王が祭祀を行う時に使う供物を毎日献上すること)」、侯服は『祀(供物を月ごとに献上すること)』、賓服は『享(供物を四季ごとに献上すること)』、要服は『貢(供物を年ごとに献上すること)』、荒服は『王(王が変わるごとに進貢すること)』と決められています。これが『日祭・月祀・時享・歳貢・終王』の秩序です。また、『祭』を行わない者がいたら王は反省自責し、『祀』を行わない者がいたら王は言(号令)を正し、『享』を行わない者がいたら王は文典法)を正し、『貢』を行わない者がいたら王は名(名分・名号)を正し、『王』を行わない者がいたら王は徳を修めるものです。これらのことを実行したのにまだ従わない者がいた時、始めて刑を用いることができます。『祭』を行わない者には刑罰を与え、『祀』を行わない者は伐ち、『享』を行わない者は征し、『貢』を行わない者は譴責し、『王』を行わない者は戒告します。だから刑罰の規定があり、攻伐の武器があり、征討の備えがあり、厳格な譴責の命があり、戒告の辞があるのです。法令を敷き辞を述べても至らない者がいるようなら、王はますます徳を修めるべきです。民を動員して遠征する必要はありません。このようにすれば、近くで命令に従わない者はなく、遠くで帰順しない者もいません。大畢と伯士犬戎の二君)が死んでから、犬戎氏が『王』の職貢を怠ったことはありません。天子(穆王)は『享』を行わない罪によって征伐し、武威を示すつもりですが、先王の訓(教え)を廃し、王の軍を危険にさらすことになります。今の犬戎は敦厚実直で先君の徳に従い、職分を守っているといいます。兵を用いたら我々と対立することになってしまいます。」
結局、穆王は諫言を聞き入れず、犬戎遠征を開始します。毛公班、井公利、逢公固に軍を率いて犬戎討伐に従うよう命じました。
 
冬十月、穆王が北(北西)に巡狩し、犬戎を征ちました。
穆王は四頭の白狼と四頭の白鹿を得ましたが、この後、荒服から来貢する者がいなくなったといわれています。
 
犬戎討伐で穆王は煉鋼赤刀を得ました。この赤刀は玉を切る時も泥に刀を入れるように簡単に切れるほどの名刀だったといいます。
 
 
十三年
[] 春、祭公が軍を率いて穆王の西征に従い、陽紆に駐軍しました。
 
秋七月、西戎が来賓しました。
 
穆王が西征をしている間に徐戎(徐夷。徐国)が九夷を率いて宗周(東都・洛邑を攻撃し、更に西進して黄河に至りました。徐の主は偃王といいます。上述の徐子誕(穆王六年)と恐らく同一人物です。
 
冬十月、造父が穆王の馬車を御して宗周に入りました。
造父は禹の治水を助けた大費の子孫です。
大費の後世に中衍という者がおり、商代・帝大戊の御車正)を勤めました。
その子孫に蜚廉がおり、二人の子ができました。一人は悪来で、商王朝最後の王・紂に仕えて殺されました。後に悪来の子孫は秦国の祖となります。
悪来の弟を季勝といい、季勝は孟増を産みました。孟増は西周成王に重用されました。孟増は宅皐狼と号します。皐狼は地名のようです。
宅皐狼は衡父を産み、衡父が造父を産みました。
造父は御術に長けていたため穆王に信任されました。造父が駿馬の中から桃林の盗(または「温驪」)赤驥、驊騮、騄耳といった馬を選んで穆王に献上すると、穆王は造父に駟車(四頭の馬が牽く馬車)を御させることにしました。
穆王は造父が牽く車に乗って西方の巡狩を楽しみ、帰ることを忘れるほどでした。また、穆王は八駿(八頭の駿馬)を得て造父に御させ、天下を遊行して全国いたる所に車轍・馬跡を残そうとしたともいわれています。
しかし徐偃王の乱を知ると、穆王を載せた造父の馬車は一日に千里を駆けて宗周に帰りました。
 
造父の迅速な行動によって宗周の混乱は鎮静されました。



次回に続きます。