西周時代18 穆王(二) 徐偃王

今回は穆王時代の続きです。
 
十四年
[]  穆王は宗周を安定させると徐夷への反撃を開始しました。楚(楚国の主。子爵)に命じて徐国を討伐させます。造父が使者として楚に赴き、一日で到着しました。
 
周の王孫厲が楚子に徐夷討伐を説得する話が『淮南子・人間訓』にあります。王孫厲が楚子に言いました「徐君は仁義の行いを好んでいます。徐を討伐しなければ、やがて楚は徐に服従することになるでしょう。」
楚子が言いました「有道の君だと知りながら兵を向けることはできない。」
王孫厲が言いました「大国が小国を討伐し、強国が弱国を討伐するのは、石を投げて卵を割り、虎が豚を食べるのと同じくらい容易なことです。躊躇することはありません。そもそも、文治を知りながら徳政を実現することができず、武を擁しながらその力を使うことができないようでは、更に大きな禍をもたらします。」
楚は出兵に同意しました
但し、『淮南子・人間訓』では楚の主を文王としています。文王は春秋時代の君主なので時代があいません。
 
資治通鑑外紀』は少し異なる説を載せています。以下、抜粋します。
穆王の西征中に徐夷が乱を成し、九夷を率いて宗周を攻撃しました。更に西進して黄河に至ります(前年参照)
穆王は徐夷の勢いを恐れたため、徐子(恐らく「徐子誕」)を東方諸侯の長に任命しました。徐子は嬴姓で、潢池の東五百里に住んでいました。仁義を行い、陳・蔡の間に運河を開いて舟で行き来できるようにしました。後に徐子は朱弓と朱矢を手に入れ、それを天瑞だと信じて偃王を称しました。
陸続きで徐国に朝見する諸侯は三十六国に上ります。
穆王は西征中でしたが、徐子が王を僭称したと知って急いで帰還し、楚に徐を攻撃させました。
 
経緯に若干の差があるものの、徐は楚の攻撃を受けることになりました。楚は大挙して徐国に進攻します。
徐偃王は国人を戦いに巻き込むことが忍びず、北方に位置する彭城武原県東山の麓に逃げました。万を数える百姓が偃王に従い、徐偃王が逃げた山は徐山と名付けられました。
 
後漢書東夷伝(巻八十五)』によると、徐偃王は東方の諸侯の長として仁義を行い、三十六国が徐国に朝見するようになりましたが、仁義の行いを知っていたものの世情の変化に疎く、臨機応変な政治ができなかったため、滅ぼされることになりました。
 
徐偃王は死ぬ時にこう言いました「わしは文徳に頼ってきたが、武備に明るくなかったため、このような事になってしまった。」
 
[] 夏四月、穆王が軍丘に駐軍して狩猟(軍事訓練)を行いました。
 
[] 五月、穆王が范宮を築きました。
 
[] 秋九月、翟人が畢を侵しました。
 
[] 冬、穆王が萍沢で蒐を行いました。「蒐」も狩猟の意味ですが、実際は軍事訓練や閲兵を指します。
 
[] 穆王が鄭圃で狩りをした時、葦が茂る沼沢に虎がいました。七萃の士(禁衛)・高奔戎がその虎を生け捕りにして穆王に献上します。喜んだ穆王は牢を作って虎を入れ、東虢の地で養わせました。この地は虎牢とよばれるようになります。
 
 
十五年
[] 春正月、留昆氏(留昆国)西周に来賓し、玉百枚を献上しました。
 
[] 穆王が寵愛する盛姫のために重璧台(楼台の名称)を築きました。
盛姫は盛伯(郕伯)の娘で、盛(郕)は武王の弟・叔武が封じられた国なので、周王族と同じ姫姓です。盛姫の「姫」は姓を表します。当時の礼では同姓の婚姻が禁止されていました。穆王と盛姫は礼から外れた関係にありました。
 
[] 冬、穆王が塩沢(塩池)を視察しました。
 
 
十六年
[] 霍侯・旧が死にました。
霍侯・旧は霍侯・処の子孫です。霍侯・処は武王の弟で、三監の乱(成王元年~三年)を起こした一人です。
 
[] 穆王が造父を趙城に封じました。徐夷の乱鎮圧の功績を嘉したためです。造父の子孫は趙氏を名乗りました。
 
 
十七年
[]  秋八月、穆王が西征して犬戎の五王を捕え、戎族を太原に遷しました。
 
穆王は造父が御す馬車に乗って昆侖丘(崑崙邱)に至り、西王母に会いました。西王母は西方の仙女です。
穆王は西王母と瑤池のほとりで酒宴を開き、楽しんで帰ることを忘れたといわれています。
西王母が穆王の西征を諫めたため、穆王は北に向かうことにしました。
 
北征した穆王は流沙(沙漠)を千里、積羽(辺境の地名。北方の荒野)を千里進みました。
 
穆王は各地を征討・巡行し、西は青鳥(三危山)に至りました。『古本竹書紀年』は穆王十三年の西征西戎討伐)で青鳥に至ったとしています。
『今本竹書紀年』は穆王が前後して一億九万里を移動したとしています。『古本竹書紀年』には「穆王は東征して天下の二億二千五百里を進み、西征して一億九万里を進み、南征して一億七百三里を進み、北征して二億七里を進んだ」とあります。
 
[] この年、西王母が来朝しました。穆王は昭宮で西王母をもてなします。
『竹書紀年』の版本によっては「穆王十七年」ではなく、「五十七年」としていることもありますが、恐らく誤りです。
 
 
十八年
[] 春正月、穆王が祇宮に住み、諸侯の来朝を受けました。
 
 
二十一年
[] 祭文公(謀父)が病死しました。
『逸周書』に『祭公解』があり、祭公・謀父が死ぬ前に穆王や三公に対して正しい政治を行いように言い残したことが書かれています。
 
 
二十四年
[] 正月、穆王は成周にいました。
ある日の朝、穆王が三公と左史・戎夫に言いました「過去に起きたことが予を驚かせたため目が覚めた。」
穆王は戎夫に諸官を監督させて歴史上の出来事で教訓となることをまとめるように命じました。こうして『記』が作られ、朔望(毎月一日と十五日)になると穆王に読み聞かせることになりました。
 
 
三十五年
[] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、荊人(楚)が徐国を攻めたため、毛伯遷が軍を率いて荊人と戦い、泲で破りました。
しかし徐は穆王十四年に楚に敗れ、偃王が逃走したと書きました。その後、復国して周王朝の保護下に入っていたのかもしれません。
 
清代に書かれた『徐偃王志』には前述の内容(穆王十三年~十四年。周が楚に命じて徐を攻撃させたこと)と異なる記述がされています。
穆王三十五年に徐国は楚の攻撃を受け、偃王が彭城に逃げました。この時、数万の民が偃王に従い、移住した場所を徐山と名付けました。
楚が徐を滅ぼしたと聞いた穆王は激怒して毛伯遷に楚討伐を命じます。楚は泲で敗れ、徐が復国されました。
穆王時代の事績は様々な記録が分散して残されているため、どれが正しいかを判断するのは難しいようです。



次回に続きます。