西周時代18 穆王(三) 呂刑

今回で穆王時代が終わります。
 
三十七年
[] 穆王が九師を大挙して東征(南征)し、九江に至りました。この時、黿鼉(亀や鰐)を大量に捕まえて橋を架けたといわれています。
周軍は越を討って紆に至りました。
これは『今本竹書紀年』の記述です。『古本竹書紀年』では版本によって東征(南征)の年を「七年」「十七年」「三十七年」「四十七年」としており、討伐した対象も「越」「楚」「荊」「紆」等と様々です。
このうち、「楚」と「荊」は同じ場所を指します。「越」は地名ではなく、「海を越えて南征した」と解釈することもあります。「紆」は本来「紓」と書かれるべきで、「舒」に通じ、同音の「徐」を指すという説もあります。その場合は徐偃王討伐(穆王十三~十四年)を指すことになります。
 
『古本竹書紀年』にはこういう記述があります「穆王南征,君子為鶴,小人為飛鴞。」。
『抱樸子内篇·釈滞(第八章)』には「三軍之衆,一朝尽化,君子為鶴,小人成沙」とあります。『抱樸子』にはいつの出来事か明記されていませんが、恐らく穆王南征の様子を描いた記述です。
『太平禦覧』には『抱樸子』の一文として「周穆王南征,一軍尽化,君子為猿為鶴,小人為蟲為沙」という内容が紹介されています現行の『抱樸子』にこの記述はないようです。『太平禦覧』が書かれた宋代から内容が変わっているのかもしれません)
これらをまとめて訳すと、「穆王が率いる三軍は一朝で全滅し、君子(恐らく将領)は猿や鶴となり、小人(恐らく士卒)は飛鴞(フクロウ。悪鳥)または虫や沙になった」という意味になります。「猿」「鶴」「飛鴞」「蟲(虫)」「沙」になったというのは、戦死したという意味のようです。
現代中国語にも「猿鶴沙虫」という成語があり、戦死した将兵を意味します。
『古本竹書紀年』のこの記述を見ると、穆王の南征は失敗に終わったようです。
 
[] 前年周軍に敗れた荊人(楚)が周に来貢しました。あるいは穆王率いる九師の大軍が南下したため、朝見したのかもしれません。
 
 
三十九年
[] 穆王が塗山で諸侯と会盟しました。
『帝王世紀』は「穆王が徳教を修めて、塗山で諸侯と会盟した」と書いています。穆王の時代は政治が衰退して社会が不安定になったともいいますが、『帝王世紀』の記述を見ると、逆の評価も存在するようです。夏王朝創始者・禹もかつて塗山に諸侯を集めて会盟しました。穆王による塗山の会も大きな功績に数えられています。
 
 
四十五年
[] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、魯侯・(弗。魏公。または「微公」)が在位五十年で死にました。魏公は兄の幽公・宰を殺して即位した人物です(昭王十四年)
魏公の子・擢(または「翟」が立ちました。これを厲公といいます。
 
資治通鑑外紀』では穆王三年に魯・煬公が在位六十年で死んで子の幽公・宰が立ち(康王二十六年参照)、穆王十七年に幽公の弟・茀(微公)が幽公を殺して自立し(昭王十四年参照)、懿王二年になって微公が死んだとしています。懿王は穆王の孫にあたります。
 
 
五十一年
[] 諸侯で和睦しない者が現れるようになり、社会が不安定になりました。穆王が遠征や巡狩を繰り返したため、都に帝王が存在せず、政治が弛緩したことが原因だといわれています。
そこで甫侯(穆王の相)が穆王に刑罰を定めるように進言しました。甫侯は呂侯ともよばれており、賢能の徳をもつ人物です。
穆王は豊で甫侯に命を下し、刑法を作りました。これを『呂刑』、または『甫刑』といいます。
尚書・呂刑』には穆王が国君となって百年が経ち(王享国百年)、年老いて政治が弛緩したため、新たに刑罰を制定して四方を引き締めたとあります。穆王が即位した時は既に五十歳だったため、「享国百年」というのは在位年数ではなく、穆王の年齢(百歳)のようです。
 
『呂刑』が完成すると、穆王が諸侯に宣言しました「国土を有する諸侯達よ、汝等に刑を用いる道を告げよう。汝等が百姓を安んじるには何を選ぶか。当然、賢人を選ぶであろう。何をつつしむか。当然、刑罰をつつしむであろう。刑罰をどう用いるか。当然、その軽重を正しくするであろう。原告と被告がそろったら、獄官は五辞(下記参照)によって両者の言を聞き、五刑(下記参照)に当てはまるようなら刑を用いて罪を正せ。五刑に当てはまらなければ五罰(金銭による贖罪)を用いよ。五罰にも当てはまらないようなら五過(下記参照)によって罪を検証せよ。五過を定める弊害は、官獄(官員に対する訴訟)や内獄(君主の寵臣に対する訴訟)で公正を失いやすいことである。このような場合に法を曲げて公正な裁きをしない者がいたら、罪を犯した者と同罪とせよ。五刑の判決に疑いがあるようなら五刑を免じて五罰とし、五罰に疑いがあるようなら赦免することができる。よく審査して真相を明らかにせよ。罪状が明らかで誰もがその罪を認めたとしても、なお取り調べを行い、熟考しなければならない。証拠が明確でなければ疑ってはならず、天威を畏敬して慎重になれ。黥刑(墨刑)の判決が下されても疑いがあるようなら刑を免じ、百率(黄鉄六両の罰金刑)にしてよく調査せよ。劓刑で疑いがあるようなら刑を免じ、倍(二百率)の罰にしてよく調査せよ。臏刑で疑いがあるようなら倍差(五百率?)としてよく調査せよ。宮刑で疑いがあれば六百率(『史記・周本紀』では「百率」ですが、『尚書・呂刑』では「六百率」となっているので、恐らく『史記』が誤りです)とし、よく調査せよ。大辟で疑いがあれば罰千率とし、よく調査せよ。墨刑に該当する罪状は千種、劓刑も千種、臏刑は五百種、宮刑は三百種、大辟は二百種である。以上、五刑の罪状は三千種である。」
『呂刑』は『尚書』に収録されています。
文中にある「五辞を聴く」というのは、「辞聴(言辞を聞く)」「色聴(相手の表情を見る)」「気聴(雰囲気を見る。または相手の呼吸を観る)」「耳聴(相手が耳で聞いた時の反応を見る)」「目聞(相手の視線を見る)」ことを指します。
また、「五刑」は墨(刺青)・劓(鼻を削ぐ刑)・臏(脚を切断する刑)・宮(去勢する刑)・大辟(死刑)を指します。
「五過」は惟官(権勢を恐れて罪を犯すこと)、惟反(公職を利用して私怨に報いること)、惟内(身内をかばって罪を犯すこと)、惟貨(財を求めて罪を犯すこと)、惟来(他者の要求に従って罪を犯すこと)を指すと思われます。
 
 
五十五年
[] 穆王が祇宮で死にました。百五歳でした。子の共王・繄扈(または「伊扈」)が立ちました。
 
 
穆王の事績に関しては『穆天子伝』という書が残されています。『穆天子伝』は戦国時代に編纂されたといわれており、西晋時代(三世紀)になって発掘されました。
 
 
 
次回は恭王(共王)の時代です。