西周時代20 懿王

今回は懿王の時代です。
 
懿王
恭王(共王)が死んで子の懿王が立ちました。名は囏(または「堅」)です。
 
 
元年 丙寅。または乙酉、丁亥。
[] 春正月、懿王が即位しました。
 
[]  鄭で「天再旦」という現象が見られました。「天再旦」とは一日に太陽が二回現れるという意味です。全日食のため太陽が隠れて夜のように暗くなってから、再び太陽が現れて明るくなったと考えられます。
 
 
七年
[] 西戎が周都・鎬邑を侵しました。
 
 
十三年
[] 翟人が岐を侵しました。岐は周が興起した場所です。
懿王の時代は王室が衰微したため、戎狄が頻繁に周の中心部を侵すようになりました。
 
 
十五年
[] 懿王が宗周(鎬)から槐里に遷都しました。戎狄の侵攻を避けるためです。槐里は犬丘(犬邱)ともよばれます。
犬丘には後に「秦嬴」と号することになる非子が住んでいました。非子に関しては次回(孝王元年)に書きます。
資治通鑑前編』は遷都を懿王元年のこととし、『帝王世紀』は懿王二年のこととしています。
 
資治通鑑外紀』によると、犬丘は鎬に近く離宮があったため、懿王は暫くそこに住んだだけで、正式な遷都ではないとしています。
 
 
十七年
[] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、魯の厲公・擢(または「翟」)が在位三十七年で死にました。魯は厲公の弟・具を立てました。献公といいます
 
資治通鑑外紀』は異なる記述をしています。
懿王二年、魯の微公が在位五十年で死んで子の厲公・擢が立ち(穆王四十五年参照)、孝王(懿王の次の王)四年に厲公が在位三十七年で死んで弟の献公・具が立ったとしています。
 
 
二十一年
[] 虢公が師(軍)を率いて北伐し、犬戎を攻撃しましたが、敗退しました。
 
 
二十五年
[] 懿王が死にました。
在位年数二十五年というのは『竹書紀年』(今本)『帝王世紀』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』とも共通していますが、『資治通鑑外紀』は一説として「在位二十年、五十歳」とも記載しています。
 
懿王の時代は時節を選ばず政令が発せられ、挈壺氏(時間を管理する官)も職を全うしませんでした。そのため諸侯が離れていきました。
王権の失墜が度重なる戎狄の侵攻を招き、遷都にまで追い込まれました。
こうした世情を背景に、詩人が衰微した王室を風刺する歌を作りました。
 
懿王の後は恭王の弟(穆王の子)・辟方が立ちました。これを孝王といいます。
 
周王室には長嫡子が世襲する決まりがありましたが、懿王の子ではなく穆王の子が即位しました。これは異例なことです。その原因として:
1、懿王の時代に周王室の政道が著しく廃れ、戎狄の侵攻を防ぐこともできなかったため、王室も諸侯も強い王を必要とした。その結果、穆王(各地に遠征して国土を拡大しました)の子が選ばれた。
2、懿王の太子・燮は柔弱で天子となる資質に欠けていた。
といった理由が考えられます。
 
但し『史記・三代世表』では、孝王は懿王の弟(恭王の子)とあり、『世本』も恭王が懿王と孝王を産んだとしています。
 
[] 『帝王世紀』によると、懿王の時代に姜姓の紀侯(紀国の侯爵。あるいは子爵ともいわれています)が斉(同じく姜姓)の哀公を讒言したため、懿王が哀公を煮殺したとあります。
しかし『竹書紀年』(古本・今本)とも夷王三年のこととし、『史記・斉太公世家(巻三十二)』の注(集解)にも「周夷王」と書かれています。



次回は孝王の時代です。