西周時代21 孝王

今回は孝王の時代です。
 
孝王
懿王が死んで恭王の弟(または「懿王の弟」)・辟方が立ちました。これを孝王といいます。
 
 
元年 辛卯。または庚戌、壬子。
[一] 春正月、孝王が即位しました。
 
[二] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、孝王が申侯に命じて西戎を討伐させました。
 
史記・秦本紀』に申侯に関する記述があります。但し、西戎とは友好関係にあったと書かれています。
商王朝最後の王・紂に仕えて周武王に殺された悪来悪来革)には女防という子がいました。女防は旁皋を産み、旁皋は太几を産み、太几は大駱を産み、大駱は非子を産みました。造父が穆王に重用されたおかげで、悪来の子孫も趙氏を称して繁栄していました。
非子は犬丘に住み、馬や家畜を育てていました。懿王が非子の住む犬丘に遷都したことは前回(懿王十五年)書きました。犬丘の人々が非子の能力を孝王に報告すると、孝王は非子を召し、汧水と渭水の間で馬を管理させました(後述)。すると馬は大いに繁殖しました。そこで孝王は非子を大駱の後嗣に立てようとしました。しかし周王室と関係が深い申侯の娘が大駱に嫁いでおり、既に嫡子・成を産んでいました。
申侯が孝王に言いました「昔、わが祖先で酈山に住んでいた女が西戎の胥軒仲衍の曾孫。仲衍は悪来の先祖)の妻となり、中潏を産みました。中潏は母の縁故で周に帰順し、西垂の地を有しました。そこから西垂と周は和睦しました。今、私は大駱に妻を与えて嫡子・成を産みました。申と駱が婚姻関係を重ねたので西戎が皆、周に服し、周の王業が支持されています。王はこの点を考慮するべきです。」
孝王が言いました「昔、栢翳は舜のために家畜を育てて大いに繁殖させた。舜はこれを嘉して領土を与え、嬴姓を下賜した。今、その後世が朕のために馬を繁殖させた。朕も領地を分け与えて附庸(男爵の下)としよう。」
孝王は非子に秦邑を与えて嬴氏の祭祀を継承させました。非子は「秦嬴」と号します。
また、孝王は申侯の娘が産んだ成を大駱の嫡子に認め、西戎との和を保ちました。
 
尚、『竹書紀年前編』は孝王十三年に非子を附庸の秦に封じたとしています。
 
 
五年
[一] 西戎が馬を献上しました。
 
 
七年
[一] 冬、大雨が降り電が落ち、大雹が降って牛馬が死に、長江・漢水が全て凍りました。
この年、後に厲王となる胡が産まれたようです。胡は懿王の太子・燮の子です。
 
 
八年
[一] 汧水と渭水の間で牧畜を始めました。孝王元年に書いた『史記・秦本紀』の「非子を召して汧水と渭水の間で馬を管理させた」という記述がこれにあたるようです。
 
 
九年
[一] 孝王が死にました。
在位年数九年というのは『竹書紀年』(今本)の記述です。『資治通鑑外紀』には在位年数十五年、六十五歳とあり、『資治通鑑前編』も十五年としています。
 
諸侯は改めて懿王の太子・燮を立てました。これを夷王といいます。
これは『史記・周本紀』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』等に共通する内容です。しかし『十八史略』には「孝王が死に、子の夷王・燮が立った」としています。



次回は夷王の時代です。