西周時代22 夷王 楚熊渠

今回は夷王の時代です。
 
夷王
孝王が死に、懿王の太子・燮が諸侯に擁立されました。これを夷王といいます。
 
 
元年 庚子。または乙丑、丁卯。
[一] 春正月、夷王が即位しました。
諸侯が来朝すると、夷王は堂を下りて諸侯と「抗礼(平等な礼)」を行いました。
本来、帝王は堂の上で諸侯を引見するものです。夷王が堂を下りたのは周王室の威信が衰えていたことを示します。また、夷王が諸侯の擁立によって即位できたことも抗礼の理由に数えられます。
夷王の行為は君臣の礼から外れているとして後世の批判も招きましたが、当時の諸侯は夷王を聖徳の帝王と称えました。
 
 
二年
[一] 蜀人と呂人が瓊玉を献上しました。夷王は黄河に臨み、大珪(玉の礼器)で祭祀を行いました。
 
 
三年
[一] 夷王が諸侯を集め、斉の哀公を鼎で煮殺しました。原因は斉と同姓(姜姓)の紀侯が哀公を讒言したためです。
『帝王世紀』がこの出来事を懿王の時代に書いていることは既に述べました(懿王二十五年)
 
 
六年
[一] 夷王が杜林(または「社林」「桂林」)で狩猟し、犀牛一頭を得て帰りました。
 
 
七年
[一] 夷王の時代は王室が衰弱しており、荒服が朝貢しなくなりました。
そこで夷王は虢公に六師を率いて太原の戎を討伐させます。虢公は泉に至り、馬千頭を得ました。
 
[二] 冬、礪(蠣)のように大きな雹が降りました。
 
[三] 成王によって楚に封じられた熊繹(成王八年)は熊艾を産み、熊艾は熊(または「熊黮」)を産み、熊勝を産みました。熊勝は弟の熊楊(または「熊煬」)を後継ぎとしました。熊楊は熊渠を産みました。
熊渠が楚の主となったのはちょうど周夷王の時代で、王室が衰微し、諸侯の中には朝見しなかったり互いに攻伐する者が現れるようになりました。
 
熊渠は長江・漢水の民心を得ていたため、兵を起こして庸や楊(または「楊越」)を攻めて鄂に至りました。
資治通鑑前編』は楚の鄂進攻を夷王八年のこととしています。
 
熊渠が言いました「わしは蛮夷だ。中国(中原)の号諡(称号・諡号にならう必要はない。」
熊渠は三人の子に王位を与えました。熊康(または「熊庸」「熊毋康」)を句亶王(または「句袒王」)に、熊紅(または「熊摯紅」)を鄂王に、熊疵(または「熊執疵」)を越章王(または「就章王」)に立てて長江沿岸の楚蛮の地を治めさせます。
史記・楚世家』等には明記されていませんが、熊渠自身も王を名乗ったと思われます。
 
熊渠は弓の名手としても知られています。
ある夜、熊渠が外出した時、道端に大きな石がありました。暗くてよく見えなかったため、熊渠は虎が伏せていると思い、咄嗟に矢を射ました。矢は見事に命中し、完全に突き刺さります。熊渠が近付いて獲物を獲ろうとした時、やっと石だと気づきました。石と知ってから再び矢を射てみましたが、矢は折れてしまい、石には傷もつきませんでした。
緊張感をもち神経を集中して射た矢は石を突き刺すこともできるという話しです。
 
 
八年
[一] 夷王が悪疾を患ったため、諸侯が山川に祈祷しました。しかし夷王は病死しました。
在位年数八年というのは『竹書紀年』(今本)の記述です。『帝王世紀』と『資治通鑑前編』は「十六年」、『資治通鑑外紀』は「在位年数十五年、六十歳」としています。
 
夷王を継いで子の厲王・胡が立ちました。
 
『帝王世紀』は夷王三年に夷王が悪疾を患い、諸侯が皆、望(山川に祈祷する儀式)を行ったとしています。『帝王世紀』は夷王が在位十六年で死んだとしているので、諸侯の祈祷後、夷王の病は治癒されたことになります。
 
 
 
次回から厲王の時代です。大きな動乱が起きます。