西周時代23 厲王(一) 栄夷公

今回から厲王の時代です。今まで通り、在位年数は『竹書紀年』(今本)を参考にします。『資治通鑑前編』には異なる年数が使われていますが、併記すると繁雑になるので別途年表にまとめます。
 
 
厲王
 
夷王が死んで子の厲王が立ちました。名は胡です。
後に彘に住むようになり(厲王十二年)、近くに汾水が流れていたため、汾王ともよばれています。
 
 
元年 戊申。または庚辰、癸未。
[] 春正月、厲王が即位しました。
夷宮を建てました。夷宮は夷王(厲王の父)の廟のようです。
 
[] 厲王が栄国の夷公を卿士に任命しました。『竹書紀年』(今本)には「命卿士栄夷公落」とあります。「落」は「夷公」の名と思われます。『呂氏春秋・仲春紀・当染』では「栄夷終」という名になっています。
 
史記・周本紀』ではこれを厲王三十年のこととしています。以下、『史記・周本紀』の記述です。
厲王が即位して三十年が経ちました。厲王は利を好み、栄国の夷公を側近にしました。大夫・芮良夫芮伯)厲王を諫めて言いました「このままでは王室が卑しくなります。栄公は利を独占しようとし、大難を予測することができません。利は百物を生み、天地に存在するものです。これを独占したら害は多大になります。天地の百物は人々が皆求めています。どうして独占できるでしょう。もし独占しようとしたら人々の怒りが増大します。しかし栄公は大難に対する備えがありません。栄公は利を独占することを王に教えていますが、王はその地位を久しく保てるでしょうか。人の王となる者は利を導き出して上下に施さなければなりません。神・人・百物それぞれが得るべきものを得たとしても、なお慎んで怨みが起きることを恐れるものです。だから頌(『詩経・周頌・思文』)には『徳ある后稷を想う。后稷は天道に従った。民衆が安定して生活できるのは、后稷のおかげだ(思文后稷,克配彼天,立我蒸民,莫匪爾極)』と歌われており、大雅(『詩経・大雅・文王』)には『文王は利を天下に施して周道を成就させた(陳錫載周)』とあるのです。后稷も文王も利を天下に行きわたらせて、しかも慎んで難を恐れたから、周を興して今に至っているのです。王は利を独占することを学んでいますが、これでいいはずがありません。匹夫が利を専らにしても盗とよばれます。王たるものがこれにならったら帰服する者はわずかになるでしょう。栄公をこのまま重用したら周は必ず衰退します。」
厲王は諫言を聞かず、栄公を卿士に任命して政治を行わせました。
 
「厲王が利を独占した」というのは当時の財政事情に関係があるといわれています。西周王朝は昭王以来、周辺諸族と戦争を繰り返してきたため王室が財政難に陥りました。しかし一方では貴族や奴隷主が土地の私有化を進めていました。相対的に周王室はますます貧しくなります。そこで保守派の大臣達は「全国の土地も財産も周王のものである」と主張し、王権の強化をはかるようになりました。栄夷公はその筆頭です。厲王は保守派の意見を採用し、山林川沢の利益を独占して国人が使うことを禁止したといわれています。
 
厲王の政治によって諸侯がますます離反しました。
この頃から『詩経』の「変雅」が生まれるようになったといわれています。「変雅」というのは「正雅」に相対する語で、『大雅』『小雅』に収録された詩のうち、王室の頽廃腐敗を風刺した内容のものです。具体的にどの詩を指すかは諸説があるようです。
 
[] 楚人が亀貝を献上しました。
 
 
三年
[] 淮夷が洛を侵しました。厲王が無道だったため、周辺諸国の進攻を招いたようです。
厲王は虢公・長父(虢仲)に征伐を命じましたが、勝てませんでした。
虢公・長父も栄夷公(栄夷終)に並んで厲王に寵遇されていました。
 
中国の解放軍出版社が編纂した『中国歴代戦争年表』には、厲王十三年のこととして虢公の戦争を紹介しています。但し、ここでは周軍が大勝して凱旋したとされています。
 
厲王が東夷、南夷を征す
865年 周厲王十三年
厲王が自ら大軍を率いて、卿士虢仲を将とし、東夷、南夷を攻撃した。二十六の小国に大勝して凱旋した(『無其簋』銘文から)
 
[] 斉の献公・山が死にました。
かつて斉の哀公が夷王に殺されたことは既に書きました(夷王三年)。哀公を継いだのは弟の静です。これを胡公といいます。胡公は斉の都を栄丘から薄姑に遷しました。
ところが後に哀公の同母弟・山が胡公を怨んで殺し、自立しました。これが献公です。献公は即位元年に胡公の子を駆逐し、都を薄姑から臨菑に遷しました。
この年(厲王三年)、献公が在位九年で死に、子の武公・寿が立ちました。
 
 
六年
[] 楚子(楚国の主。子爵)・熊延が死にました。
夷王の時代(夷王七年)、熊渠が三人の子を王に封じました。恐らく熊渠も王を自称したはずです。しかし諸侯に対して恭しく接した夷王が死んで暴虐な厲王が即位すると、熊渠は周の討伐を恐れて全ての王号を廃止しました。
熊渠の跡は長子・熊毋康(または「熊康」)が継ぐはずでしたが、熊毋康は熊渠より先に死んでしまいました。そのため、熊渠の死後、二子の熊摯紅(または「熊紅」)が即位しました。
しかし熊摯紅の弟(恐らく熊摯疵)が熊摯紅を殺して自立し、熊延と名乗りました。
この年(厲王六年)、その熊延が死に、子の熊勇が立ちました。
 


次回は「国人暴動」です。