西周時代24 厲王(二) 国人暴動

今回も厲王の時代です。大きな暴動が起きます。



八年
[] 厲王は暴虐なうえ奢侈を極めました。『帝王世紀』によると、厲王は酒色にも溺れていたようです(厲王荒沈於酒,淫於婦人)。そのため国人が厲王を謗るようになりました。
厲王の卿士である召公・虎穆公。康公・奭の子孫)も厲王を諫めて「民は王の命に堪えることができません」と言いましたが、厲王は怒って衛国の巫を招き、政治を批判する者を観察させました。巫が使われたのは、神に仕える者なら誹謗する者を見分けることができると信じたからです。
巫は次々に誹謗者を告発し、厲王はその報告に基づいて処刑しました。
その結果、厲王を批判する者は減り、諸侯も入朝しなくなりました。
 
史記・周本紀』は厲王三十四年の事としてこう書いています。
厲王がますます監視を厳しくしたため、国人は声に出して批難することなく、知人と道で会っても目と目を見合わせるだけになりました。
厲王が喜んで召公・虎(穆公)に言いました「わしは誹謗を止めることができた。民で敢えて批判を口にする者はいない。」
召公・虎が言いました「これは口を塞いだだけです。民の口を塞ぐのは、川の流れを塞ぐより危険なことです。水が塞がれて決壊したら多くの人を傷つけます。民も同じです。だから水を治める者は水路を開いて流れを導き、民を治める者は民が議論をできるようにするのです。天子が政治を聴く時には、公卿から列士の地位にいる者には詩(政治に対する意見や風刺)を献上させ、瞽(盲目の楽師)には典(楽曲)を献上させ、史(太史。史官)には書(歴史に記された教訓)を献上させ、師(祭楽の太師)には(訓戒の文)を献上させ、瞍(眸がない盲人)には賦させ公卿列士の詩を歌わせ)(眸があるが目が見えない者)には誦させ箴諫の文を詠ませ)百工にはそれぞれの職に関することを進言させ、庶人には語を伝えさせ(身分が低い庶人は直接朝廷に意見を述べることができないため、街巷で意見を交換したり伝えさせ)近臣には規させ(諫めさせ)、親戚には補察させ(王の過失を補い、是非を観察させ)、瞽や史には教誨させ、耆艾(老人。ここでは王の師傅)には瞽史の教えを整理してから王に報告させるものです。その後、王はこれらの意見を選んで採用するので、政治を順調に行うことができるのです。民に口があるのは、地に山川があり財物を生じるのと同じです。地には原野や湿地、平地、沃野があり、衣食はそこから生まれます。民の口が自由に発言できてこそ、政治の善し悪しがはっきりし、善を行って欠陥に備えることができ、衣食を生み出して用いることができるのです。民は心に思ったことを自由に口に出し、それを成し遂げるために行動します。いつまでその口を塞げると思いますか。今、王は下では口を塞ぎ、上では過ちを犯しています。恐らく社稷の憂いとなるでしょう。」
厲王は諫言を無視しました。
この後、国政に口出しする者がいなくなりました。
 
[] 芮良夫(芮伯)が朝廷で百官を訓戒しました。
『逸周書』の『芮良夫解』は芮伯が厲王を善道に導き、政治を行う大臣百官に反省して行いを正すように警告する内容が書かれています。
しかし厲王の行いは改められませんでした。
 
 
十一年
[] 厲王が無道だったため、諸侯が離れ、西戎が秦の犬丘を侵しました。
犬丘に住んでいた大駱秦嬴・非子の父。孝王元年参照)の一族が滅ぼされました。
 
 
十二年
[] 厲王の暴政は止まることがありませんでした。ついに堪えることができなくなった国人が、協力して一斉に反旗を翻します。民衆は王宮を襲い、厲王は晋地に属する彘という場所に出奔しました
『竹書紀年』(今本)は厲王十二年に書いていますが、『史記・周本紀』はこれを召公・虎(穆公)の諫言(厲王八年参照)から三年後三十七年)のこととしています。『資治通鑑前編』も厲王三十七年に書いています。
資治通鑑外紀』では厲王四十年になっています。
 
厲王の太子・静は召公・虎の家に隠れました。それを知った国人は召公の家を包囲します。召公・虎が言いました「今まで私はしばしば王を諫めてきたが、王は従うことなく、この難を招いてしまった。今、王の太子が殺されたら、王は私が王を怨み、怒って報復したと思うだろう。君に仕える者は危険に遭っても君を怨むことなく、怨んだとしても怒らないものだ。ましてや王に仕える者ならなおさらである。」
召公・虎は自分の子を太子・静の身代わりとしたため、太子・静は危難から逃れることができました。召公の子は国人に捕まって殺されました。
 
この事件を「国人暴動」といいます。
「国人」というのは貴族や奴隷主、商工業者等、城邑(都市)内に住む人たちです。これに対して城邑の外に住んでいる人達は「野人」とよばれていました。
 
[] 王が亡命したため、召公・虎(穆公)と周公(定公。名は分かりません)の二相が政治を行うことになりました。号して「共和」といいます。公卿が共に和して政治をするという意味です。
史記・周本紀』『十八史略』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』等の伝統的な史書はこの説を採っています。
しかし『竹書紀年』(古本・今本)は「共伯(共国の主。伯爵)・和という者が政治を行い、共和と号した」と書いています。
現在では『竹書紀年』の説が一般的のようです。
 


次回から共和時代です。