西周時代27 宣王(一) 宣王中興(前827~822年)

今回から宣王の時代です。年数は今まで通り『竹書紀年』(今本)を参考にします。『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』にはことなる年数が記載されているので、別の表にまとめます。
 
 
宣王
厲王が死に太子・靖(または「静」)が即位しました。これを宣王といいます。
 
 
宣王元年
甲戌 前827
 
[一] 春正月、宣王が即位しました。二相(周定公と召穆公)が輔政します。厲王が失政してから獫狁(玁狁)や荊蛮(中原)が中国を侵すようになりました。朝廷の官政は腐敗し、百姓(民衆)も離散しました。そこで宣王は宮室を修復し、賢良の人材を集め、諫言を聞き入れ、兆民(万民)を安定させることに勉めました
宣王の時代は二相の他にも樊仲山父仲山甫)、尹吉父尹吉甫)、程伯・休父、虢文公、申伯、韓侯・顕父、南仲、方叔、仍叔、張仲等の賢人が用いられ、卿佐として政事を行いました。
宣王は南仲、邵公(召侯・虎)、方叔、尹吉父等に各地の討伐を命じて先王の境土を恢復させ、軍を整理し、畋狩(狩猟)の礼を興したため、天下が宣王の政治を喜びました。後に「宣王中興」と称されるようになります。
尹吉甫がこの時代の功績を称えて詩を作りました。『詩経・大雅』に収録されている『烝民』『江漢』等がそれにあたるといわれています。
 
[二] 『竹書紀年』(今本)には田賦(土地税)を恢復した(復田賦)とあります。しかし田賦がいつから廃止されていたのかは分かりません。
 
[三] 宣王が戎車(戦車)を造りました。
厲王時代、周辺諸国が度々周の領土を侵しました。宣王は反攻の準備を始めました。
 
[四] 燕の恵侯が三十八年で死に、子の釐侯が立ちました。釐侯の名は『史記・十二諸侯年表』には「荘」と書かれており、『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』も「荘」を名としていますが、『史記・十二諸侯年表』の注(索隠)によるとこの頃の燕侯は名が残されていないはずなので、「荘」が本当に名かどうかははっきりしません。
 
[五] 大旱が襲いました。
 
 
 
宣王二年
乙亥 前826
 
[一] 宣王が太師・皇父と司馬・休父に命を下して政治を行わせました。
詩経・大雅・常武』に「太師・皇父」「程伯・休父」の名があります。宣王は二人に六軍(王の軍)を整えさせ、徐国討伐の準備を命じました。
 
[二] 魯の慎公(または「真公」)が在位三十年で死に、弟の敖が立ちました。これを武公といいます。これは『竹書紀年』(今本)史記・魯周公世家』『史記・十二諸侯年表』『資治通鑑前編』の記述です。
資治通鑑外紀』は慎公の死を宣王十年のこととしています。
 
[三] 曹の幽伯九年、公子・蘇幽伯の弟)幽伯・疆を殺して位を奪いました。蘇は戴伯といいます。
 
 
 
宣王三年
丙子 前825
 
[一] 宣王が秦仲を大夫に任命し、西戎の討伐を命じました。
この後、秦の風俗が変化しました。車馬・礼楽・侍御(侍人。または国君の妾)をもつ国へと発展していきます。秦の人々は秦仲を称えました。
 
[二] 斉の武公・寿が在位二十六年で死に、子の厲公・無忌が継ぎました。
 
 
 
宣王四年
丁丑 前824
 
[一] 宣王が蹶父(周の卿士。姞姓。封国の蹶を氏にしました)を辺境の韓に派遣しました。韓侯が周に来朝します。
蹶父は娘を韓侯に嫁がせて韓と周王室の協力体制を強化しました。外患に悩む周王室が北方の守備を固めるには韓との協力が必要だったようです。
詩経・大雅・韓奕』がこの出来事を歌っています。
 
 
 
宣王五年
戊寅 前823
 
[一] 晋釐侯(僖侯)・司徒が十八年で死に、子の献侯・籍(または「蘇」)が継ぎました。
 
[二] 夏六月、尹吉甫が師(軍)を率いて北方の玁狁を討伐し、太原に至りました。
詩経・小雅・六月』は尹吉甫の功績を歌っており、「文武両道の吉甫が全国の模範となった(文武吉甫,万邦為憲)」と称えています。
 
[三] 秋八月、方叔が師を率いて荊蛮を討伐しました。『詩経・小雅・采芑』は荊蛮に武威を轟かせた方叔を称える詩です。
 
 
 
宣王六年
己卯 前822
 
[一] 召穆公・虎が師を率いて淮夷を討伐しました。
 
宣王も師を率いて徐戎を討伐しました。皇父と休父が宣王に従って淮水に駐軍します。
宣王の大軍は徐戎を平定して凱旋しました。前述(宣王二年)の『詩経・大雅・常武』がこの戦いを描いています。
 
召穆公も凱旋しました。
宣王は穆公に圭瓉(玉の酒杓)と秬鬯(祭祀で用いる美酒)を一卣(卣は酒壺)下賜し、山川等の土地を与えて功績を称え、召康公の遺業を継続するように命じました。
詩経・大雅・江漢』が召穆公の淮夷討伐を歌っています。
 
[二] 宣王三年に西戎を討伐した秦仲が逆に西戎によって殺されました。秦仲の在位年数は二十三年でした。
秦仲には五人の子がおり、長子が跡を継ぎました。荘公といいます。『史記・十二諸侯年表』は荘公の名を「其」としていますが、異説もあります。
宣王は荘公兄弟五人を召し、兵七千を与えて再び西戎を討伐させました。荘公は西戎を破り、再び犬丘秦仲の先祖・大駱の一族が住んでいた地。厲王十一年参照)を治めることになります。
周は荘公を西垂大夫に任命しました。
以上は『今本竹書紀年』『史記・秦本紀』を参考にした内容です。
 
『古本竹書紀年』『後漢書・西羌伝(巻八十七)』は少し異なる記述をしています。
宣王が即位して四年後、秦仲に西戎討伐を命じましたが、秦仲は西戎に殺されました。宣王が秦仲の子・荘公を召し、兵七千人を与えて西戎を討伐させました。荘公が西戎を破ったため、西戎は若干退きました。
 
史記・秦風・無衣』は勇敢な秦軍の姿を歌っています。但し、この詩がいつの戦いを舞台にしているかには諸説があります。
 
[三]楚子(楚国の主。子爵)・熊霜が在位六年で死にました。
三人の弟・仲雪、叔堪(または「叔湛」「叔熊」)季徇(または「季紃」)が国君の位を争います。
その結果、仲雪は死に、叔堪は西南の濮(南夷)に亡命しました。少弟の季徇が即位します。これを熊徇(または「熊紃」)といいます。
 
[四] 宣王元年(一説では二年)から大旱が続き、雨が降りませんでした。宣王が身を整え行いを改めて群神に祈ります。するとこの年(六年)、ついに雨が降りました。
詩経・大雅・雲漢』は宣王が雨を乞うために祈祷した時の詩といわれています。但し、宣王二十五年にも大旱があり、宣王の祈祷によって雨が降ったといわれています。『雲漢』の詩がどちらのことを描いているのかははっきりしません。




次回に続きます。