西周時代28 宣王(二) 魯の後継者(前821~808年)
今回は宣王時代の続きです。
宣王七年
庚辰 前821年
[一] 宣王が申伯を謝邑に封じて南方の藩屏にしました。『詩経・大雅・崧高』は申伯を称える詩です。
[二] 宣王が樊侯・仲山甫を東方に送り、斉に城を築かせました。『詩経・大雅・烝民』にこの時のことが描かれています。
宣王八年
辛巳 前820年
[一] 宣王が初めて「考室」を行いました。考室とは帝王の宮殿が完成したことを祝う儀式です。
[二] 魯の武公が周に来朝しました。武公は長子・括と少子・戯を連れています。宣王は戯を気に入り、少子でありながら魯君の後継者に立てました。
樊仲山父(仲山甫)が宣王を諫めて言いました「長子を廃して少子を立てるのは『不順』であり、『不順』になれば必ず王命が犯されます。王命を犯したら必ず誅殺しなければなりません。だから政令に『不順』があってはならないのです。政令が正しく行われなければ、政事は成り立ちません。行いが『不順』なら民は上(天子)を棄てるでしょう。下が上に仕え、幼少の者が年長の者に従うことを『順』といいます。今、天子が諸侯を封じて少子を太子に立てるのは、民に逆を教えることになります。魯がこれに従ったら他の諸侯もそれにならうでしょう。そうなったら先王が定めた嫡子継承の制度が疎かにされます。逆にもしも魯が天子の命に従わなかったら、魯を誅伐しなければなりません。しかしそれは先王の命を誅伐することになります。誅伐しても道から外れており、誅伐しなくても道から外れることになります。王は再考すべきです。」
しかし宣王は従いませんでした。
『史記・魯周公世家』の「魯武公九年」は恐らく「十年」の誤りです。
宣王九年
壬午 前819年
宣王十年
癸未 前818年
宣王十一年
甲申 前817年
宣王十二年
乙酉 前816年
[一] 魯の武公・敖が在位十年で死に、少子・戯が継ぎました。これを懿公といいます。
『史記・魯周公世家』では武公九年夏のこととしていますが、恐らく武公十年の誤りです。
[二] 斉厲公九年、厲公・無忌が暴虐だったため、斉人に殺されました。斉人は胡公(厲王三年参照。哀公の弟。献公に殺され、諸子は献公によって放逐されました)の子を迎え入れて国君に立てようとしましたが、戦闘中に死んでしまったため、厲公の子・赤が即位しました。これを文公といいます。
厲公殺害に関係した七十人が誅殺されました。
[三] 中国の解放軍出版社が編集した『中国歴代戦争年表』は、この年に起きた戦争を紹介しています。
宣王が儼允を攻める
前816年 周宣王十二年
宣王が虢季子白に命じて「儼允を洛の陽(川の北側)で討たせ、五百人を斬首し、五十人を捕えて尋問した」(『虢季子白盤』銘文)。
宣王十三年
丙戌 前815年
宣王十四年
丁亥 前814年
宣王十五年
戊子 前813年
[一] 衛の釐侯(僖侯)が在位四十二年で死に、子の武公・和が立ちました。
『史記・衛康叔世家』は衛の内争を書いています。
釐侯には衛餘という太子がいました。しかし釐侯は太子・餘よりもその弟の衛和を愛し、財物を与えてきました。
釐侯が死ぬと衛餘が即位しましたが、衛和は財物を使って士を雇い、釐侯の墓で衛餘を襲わせました。衛餘は墓道に入って自殺します。
衛和が即位しました。これを武公といいます。
『資治通鑑前編』には太子・共伯が早世したため、弟の和が僖侯を継いだと書かれています。
『詩経・鄘風』の『柏風』は親に反対されても一人の男を愛し続けることを誓った女性の詩ですが、早世した共伯の妻・姜氏(共姜)が歌った詩ともいわれています。『毛詩正義』によると共伯が死んだ後、妻・姜氏の父母は娘に再婚を勧めました。しかし姜氏は共伯の妻としての義を守り、再婚を拒否して「死ぬまで他の人を愛さないことを誓った(之死矢靡它)」といわれています。
即位した武公は康叔の政治を復活させ、百姓(万民)が集まり和睦しました。
[二] 宣王が虢の文公に命を下して政治を行わせました。
宣王十六年
己丑 前812年
[一] 晋の献侯・籍が在位十一年で死に、子の穆侯(または「繆侯」)・弗生(または「費王」「費生」「●生(●はサンズイに「費」)」が継ぎました。
曲沃から絳城に都を遷しました。
宣王十七年
庚寅 前811年
宣王十八年
辛卯 前810年
[一] 蔡の夷侯が在位二十八年で死に、子の釐侯(僖侯)・所事が継ぎました。
宣王十九年
壬辰 前809年
宣王二十年
癸巳 前808年
[一] 『史記・晋世家』によると、この年、晋穆公が斉女・姜氏を娶って夫人にしました。
次回に続きます。