西周時代30 宣王(四) 太原料民 杜伯殺害(前795~782年)

今回で宣王の時代が終わります。
 
宣王三十三年
丙午 前795


[一] 斉の成公・説(または「脱」)が九年で死に、子の荘公・購(または「贖」)が継ぎました。
 
[二] 『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』はこの年に王師(周王の軍)が太原の戎を攻めて失敗したと書いています(宣王三十一年参照)
 
 
 
宣王三十四年
丁未 前794
 
[一] 『資治通鑑外紀』によると、この年、宣王が北方の玁狁を討伐しました。
玁狁との戦いは『竹書紀年』(今本)の記述を元に宣王五年にも書きました。『資治通鑑外紀』の記述が同じことを指しているのか、この年(宣王三十四年)に再び戦争があったのかはっきりしません。
 
 
 
宣王三十五年
戊申 前793
 
 
 
宣王三十六年
己酉 前792
 
[一] 宣王が條戎と奔戎を討伐しましたが、失敗して帰還しました。
これは『古本竹書紀年』の記述です。『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』は宣王三十八年に書いています。
 
 
 
宣王三十七年
庚戌 前791
 
[一] 燕の釐侯僖侯)・荘が三十六年で死に、子の頃侯が継ぎました。
 
[二] 楚子・熊鄂が在位九年で死に、子の熊儀が継ぎました。これを若敖といいます。
 
[三] 『今本竹書紀年』はこの年に周で馬が狐に化けたと書いています。『古本竹書紀年』『資治通鑑外紀』は宣王三十三年のこととしています。
 
 
 
宣王三十八年
辛亥 前790
 
[一] 『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』はこの年に王師と晋の穆侯が條戎と奔戎を討伐して失敗したと書いています(宣王三十六年参照)
 
[二] 晋が汾隰で北戎を破りました。
戎人も姜侯の邑を滅ぼしました。
これは『古本竹書紀年』の記述です。『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』は宣王四十年に書いています。
 
 
 
宣王三十九年
壬子 前789
 
[一] 宣王が申戎を討伐して破りました。
これは『古本竹書紀年』の記述です。『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』は宣王四十一年に書いています。
 
[二] 王師が姜戎(姜氐の戎。西戎の一種)を攻めて千畝で戦いましたが、王師が敗退しました。宣王の御者・奄父が敗戦の危機から宣王を救いました。
奄父は公仲ともいい、穆王の御者を勤めた趙造父の六代後の子孫です。
この戦いで宣王は「南国の師(長江・漢水一帯で徴集した兵)」を失いました。
 
 
 
宣王四十年
癸丑 前788
 
[一] 宣王は前年の戦争で南国の師を失ったため、太原で人口を数えて兵を集めようとしました。人口の調査を「料民」といいます。
仲山甫樊穆仲)が徴集の目的で人口調査を行うことに反対し、こう言いました「民の数を調べてはなりません。古人は数えなくても民の数を把握していたものです。理由もないのに民を数えるのは、天が憎むことです。政事を害して後嗣の妨げとなります。」
しかし宣王は諫言を聞かず、戸口を調査して民心の動揺を招きました。この料民は宣王の失政の一つとされています。
 
[二] 『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』はこの年に晋が汾隰で北戎を破ったこと、戎が姜邑を滅ぼしたことを書いています(宣王三十八年参照)
 
 
 
宣王四十一年
甲寅 前787
 
[一] 『今本竹書紀年』『資治通鑑外紀』はこの年に王師が申戎を攻めて破ったと書いています(宣王三十九年参照)
 
 
 
宣王四十二年
乙卯 前786
 
 
 
宣王四十三年
丙辰 前785
 
[一] 宣王が大夫・杜伯を殺しました。その子・隰叔が難を避けて晋に奔りました。
これは『竹書紀年』(今本)の記述です。『資治通鑑外紀』は宣王四十六年のこととしています。後述します。
 
[二] 晋の穆侯・弗生が在位二十七年で死に、穆侯の弟・殤叔が自立しました。世子(太子)・仇は出奔します。
 
 
 
宣王四十四年
丁巳 前784
 
 
 
宣王四十五年
戊午 前783
 
 
 
宣王四十六年
己未 前782
 
[一] 宣王四十三年に書きましたが、宣王が大夫・杜伯を処刑しました。
杜伯の罪に関して『東周列国志』に記述があります。
宣王の時代、「月がまさに昇り、日がまさに没する。桑の弓、箕の袋(矢を入れる袋)を持った者が周を滅ぼす(月将昇、日将没、桑弓箕袋、几亡周国)」という童謡が流行りました。月は女性、日は男性を表すので、「女が政治を乱して周を滅亡させる」という意味になります。
童謡を信じた宣王は弓矢を持つことを禁止する命令を出しました。この命令の責任者が杜伯です。
命令が出された頃、ちょうど山野から出てきて都で弓矢を売っている女を見つけました。宣王はこの女を処刑し、一件落着と思って安心しました。
ところがある日、西方から美女が現れて太廟に入り、太廟の主を連れて去る、という夢を見ました。美女が太廟を荒らすというのは「女が政治を乱す」という童謡に符合します。
驚いた宣王は怒って責任者の杜伯を死刑にすることにしました。
 
杜伯の友・左儒が杜伯の罪は死刑に値しないと考え、九回諫言しました。宣王が言いました「汝は君命に逆らい、友に重きをおくのか。」
左儒が答えました「主君に道があり、友が逆らっているのなら、主君に従って友を誅します。しかし友に道があるのに主君が逆を行うのなら、友を支えて主君に逆らいます。」
宣王が怒って言いました「考えを変えて言い直せば活かしてやろう。言い直さなければ死刑に処す。」
左儒が言いました「士は義を曲げることなく死に、言を変えてまで生を求めないものです。臣は死によって杜伯の無罪を明らかにすることができます。」
宣王は杜伯と左儒を処刑しました。左儒は自殺したともいわれています。
 
暫くして宣王が死にました。
宣王の死に関して、『太平広記・報応十八(巻百十九)』にこういう話があります。杜伯の罪等、上述の内容と若干異なります。
杜伯の名は恒といい、周の朝廷に入って大夫になりました。
宣王には女鳩という妾がおり、杜伯と私通しようとしました。しかし杜伯はそれを拒否します。すると女鳩が宣王にこう訴えました「杜伯が妾(私)と秘かに関係を結ぼうと迫りました。」
宣王はこれを信じ、杜伯を焦に監禁してから薛甫と司空・錡を送って杜伯を殺させました。
杜伯の友左儒が九回諫言しましたが、宣王は聴こうとしません。
殺された杜伯は人の姿をして(幽霊となって)宣王の前に現れ「恒(杜伯)に何の罪があったのですか」と問いました。
宣王は祝を呼んで杜伯の言葉を伝えます。祝が言いました「杜伯を殺した時、王は誰と謀りましたか?」
宣王が答えました「司空・錡だ。」
祝が言いました「なぜ錡を殺して謝罪しないのですか。」
宣王は錡を殺すと祝を送って杜伯に謝りました。しかし杜伯はまた人の姿をして現れ、無罪を訴えました。
司空・錡も人の姿をして「臣に何の罪があるのですか」と宣王に問います。
宣王が皇甫に話しました「祝がわしに人を殺させたのだが、その者も現れるようになった。どうすればいいだろう。」
皇甫が言いました「祝を殺して謝罪すればおさまるでしょう。」
宣王は祝も殺して謝罪しました。しかし今度は祝も一緒に現れるようになりました。祝が宣王に言いました「臣になぜ罪をかぶせて殺したのですか。」
三年後、宣王が郊外に狩りに行きました。多くの朝臣が従っています。
正午、突然、朱冠をかぶった杜伯が白馬に牽かれた素車(白い馬車)に乗って現れました。司空・錡が左に、祝が右に立っています。杜伯は道端から宣王を目指して急進すると、朱弓(赤い弓)を手にとって彤矢(赤い矢)を射ます。矢は宣王の胸に中たり、宣王は矢嚢(弓矢を入れる袋)の上に倒れて死にました。
 
これらの話は中興を果たした宣王も晩年は政治を乱し、無辜の臣下を殺害したため、人心が離れていたことを表しています。周は再び衰退しました。
 
宣王の子・(または「宮涅」「宮生」)が即位しました。西周最後の王となる幽王です。
 
 

次回から幽王の時代です。