西周時代32 幽王(二)申侯・犬戎の乱(前774~771年)

今回で西周時代が終わります。
 
幽王八年
丁卯 前774
 
[] 幽王が鄭伯・多父桓公・友)を司徒に任命しました。周の民が和し、皆、その政治を喜びました。
 
[] 幽王が虢石父と褒の讒言を信じて申后と太子・宜臼を廃しました。褒姒が王后に、その子・伯服が太子に立てられます。
 
姒が后に立てられた年には異説があります。『帝王世紀』は幽王八年、『資治通鑑外紀』は幽王九年、『資治通鑑前編』は幽王五年です。『竹書紀年』(今本)は幽王五年に宜臼が出奔し(既述)、幽王八年に伯服が太子に立てられたとしています。
 
詩経・小雅・白華』は男に去られた女性が心を痛めて歌った詩ですが、申后が作ったともいわれています。また、同じく『小雅』の『小弁』は讒言を信じた父に放逐された子が歌った詩で、宜臼が作ったともいわれています。
 
王后と太子の廃立を嘆いて太史・伯陽が言いました「禍が成立してしまった。もうどうすることもできない。」
 
 
 
幽王九年
戊辰 前773
 
[一] 幽王は高明な人材を廃し、讒言を行う者を近づけ、虢公(虢石父)を卿に任命して政事を行わせました。虢石父は佞巧でよくへつらい、しかも利を好んだため、国人に嫌われました。
宮内では褒姒襃后が寵愛を独占し、王室を乱しました。
しかし政治が改められることはなく、諸侯にも離反する者が現れ、王朝の衰退は明らかになりました。
また、幽王が申后を廃して太子を遠ざけたため、申侯の怒りを買いました。
申侯は西戎繒国。夏禹の子孫が封じられた国)を訪問して関係を結びました。
 
[二] 前年、周王室の司徒になった鄭伯・友は善政を行い、を和睦させました。は皆喜び、河雒黄河と雒水)一帯に住む人々は鄭伯に帰心しました
鄭伯が太史・伯(伯陽と同一人物?)に問いました「王室に問題が多いが、私はどうすれば難を避けることができるだろうか。」
太史・伯が答えました「洛水の東、黄河の南(済水・洛水・黄河・潁水の四川の間)だけが安住の地となるでしょう。」
桓公がその理由を聞くと、太史・伯はこう言いました「あの辺りで子爵や男爵の国では、虢国と鄶国が最も大きな勢力です。しかし虢叔は権勢にたより、鄶仲は険阻の地にたよって驕慢になっています。しかも両国とも貪婪で利を好んでいます。もしもあなたが妻子や財産を彼等に預けて庇護を求めれば、彼等が拒否することはないでしょう。もしも周王室が乱れて衰弱した時、驕慢かつ貪婪な彼等があなたに背いたとしても、あなたが成周洛邑の衆を率いて逆賊を討つという大義を称えれば、勝てないはずがありません。そもそも、両国の百姓(民衆)は貪婪な主に帰心していません。今、あなたは司徒として百姓に慕われています。あなたが彼の地に行ったら、虢・鄶両国の百姓は必ずあなたに帰順します。虢・鄶の二邑を平定したら鄔(または「鄢」)・弊(または「獘」)・補・丹(または「舟」)・依・畴(または「黒」の右に「柔」。または「田」の右に「柔」)、歴、莘(または「華」)の八邑もあなたの地となります。そこで典刑を修めて守れば、基礎を確保することができるでしょう。」
桓公が言いました「私はもっと南の長江流域に行きたいと思うが如何だろうか?」
太史・伯が答えました「かつて祝融が高辛氏に替って火を管理し、大きな功績を上げました。しかしその子孫は周朝になってから振興していません。楚国は祝融の子孫の国です。周王室が衰弱したら、楚国が必ず興隆します。それは鄭国にとって利になりません。」
桓公が言いました「西方は如何だろう?」
太史・伯が答えました「西方の百姓は貪婪で利を愛します。長く住むのは困難です。」
桓公が言いました「周王室が衰弱したら、どこの国が興盛するだろうか?」
太史・伯が答えました「斉、秦、晋、楚でしょう。斉は姜姓で伯夷の子孫の国です。伯夷は堯を補佐して典礼を定めました。秦は嬴姓で伯翳の子孫の国です。伯翳は舜を補佐して百物(動物)を懐柔しました。楚の祖先も天下ために大きな功績を立てました。また、周武王が紂に勝った後、成王が唐を叔虞に封じました。彼の地(晋地)は山川が険阻です。このように徳がある者の子孫と衰弱する周王室が併存している中で、険阻な地を擁する晋も興隆するでしょう。」
桓公が言いました「周はこのまま衰えるだろうか。」
太史・伯が答えました「今の王は高明昭顕を棄てて讒言姦悪を好み、賢人を退けて頑童(小人)を近づけ、善悪の調整をせずに悪と同調しています。周の存亡は三年も経たずに明らかになるでしょう。そうなった時に恐れを抱いても、既に手遅れです。」
桓公は納得し、幽王に許可を求めてから百姓を洛水の東部に遷しました。新しい鄭が建国されます。虢と鄶には妻子や財物を預けました。太史・伯が予想した通り、二国はそれを受け入れ、十邑を鄭に譲りました(または虢・鄶および周辺八国の十邑が鄭に地を譲りました)
 
ここに出てくる虢国は栄陽に位置し、南に鄶国が接している東虢を指します。国君は虢叔(一説では虢仲。王季の子。文王の弟)の子孫です。
鄶国は姓で高辛の火正だった祝融・黎の子孫の国です。その地は先祖の故地で、溱水と洧水の間にありました。
周王朝が衰えた頃、鄶君は政事を行わず、美しい服を着て遊宴の日々を過ごしました。もともと小国なのですぐに困窮し、多くの大夫が去っていきました。『詩経・檜風・羹裘』は逍遥と遊ぶ鄶君の様子とそれを憂いる声を描いています。
 
 
 
幽王十年
己巳 前772
 
[] 幽王が太室(嵩山の東峰で諸侯と会盟しました。この時、戎狄の背反が明らかになりました。
 
[] 秋九月に桃や杏が実をつけました。
これは『竹書紀年』(古本・今本)の記述です。周幽王十年ではなく、晋幽公十年(戦国時代)のこととする説もあります。
 
[] 幽王が申に逃げた元太子・宜臼を殺そうとし、申に引き渡しを要求しました。しかし申がそれを拒否したため、幽王は討伐の兵を挙げました。
 
 
 
幽王十一年
庚午 前771
 
[] 春正月、日暈(太陽の周りに輪ができる現象)が現れました。中が赤く、外が青く、黒い筋が太陽の真ん中を上下に貫いたといいます。
またこの頃、牛が虎に変わり、羊が狼に変わったといわれています。
 
[] 前年、幽王が申国討伐の兵を挙げました。ところが申侯は(幽王九年参照)と共に西夷・犬戎を招き入れ、逆に宗周へ攻め込みました。
 
幽王は各地に熢燧(熢は昼に挙げる煙。燧は夜点す火の光)と大鼓を設け、外寇が迫ったらそれらを使って諸侯を集めることにしていました。
以前、寵愛する褒姒は笑うことがありませんでした。幽王は褒姒を笑わすためにいろいろな方法を試しましたが、一向に笑おうとしません。
しかしある日、理由もなく熢火を挙げてしまいました。周辺の諸侯が慌てて参集しましたが、外寇の姿はありません。呆然とする諸侯の様子を見た褒姒が大笑しました。喜んだ幽王はしばしば熢火を挙げるようになります。諸侯は熢火を信じず次第に参集しなくなりました。
 
申侯や犬戎の兵が侵攻した時も、幽王は熢火を挙げましたが援けに来る者はいませんでした。
幽王は驪山の麓の戯水で殺され、王子・伯服も犬戎に殺されました。褒姒は捕まって連れ去られました。周王室の宝物は全て奪われます。
司徒の鄭桓公も殺されました。
鄭は桓公の子・掘突(または「滑突」)を主に立てました。これを武公といいます。
 
鎬京が侵されたという情報が各地に届くと、晋文侯、秦襄公、衛武公が兵を率いて周王室を援け、戎を撃退して功績を立てました。
但し、『史記』の『秦本紀』と『衛康叔世家』には秦と衛がそれぞれ兵を出したことが書かれていますが、『晋世家』には晋の出兵に関する記述がありません。『尚書』に『文侯之命』という平王の言葉が収録されており、そこから晋文侯が平王を援けて乱を収めたことがわかります。尚、『史記・晋世家』はこの『文侯之命』を周襄王が晋文公春秋時代の覇者)に対して作ったものとしていますが、司馬遷の誤りのようです。
 
[] 申侯、魯侯(孝公)、許男(男爵)、鄭子(子爵。武公)が申で宜臼を王に立てました。これを平王といいます。周祀が継承されました。
しかし攜という場所で虢公・翰(西虢の主君)が王子・余臣を擁立しました。これを攜王といいます。攜は地名ではなく諡号とする説もあります。
周は二王が並立することになりました。
 
 
 
平王は宗周・鎬京が犬戎に近すぎるため、東の王城・洛邑に遷都しました(翌年に書きます)。幽王までの時代を西周時代、平王以降を東周時代といいます。
『竹書紀年』(今本)によると、「武王が殷(商)を滅ぼしたのは庚寅の年で、その二十四年後の甲寅の年に洛邑に鼎を定め(成王十八年)、それから二百五十七年で幽王の末年に至った。殷を滅ぼしてからは二百八十一年、武王元年(諸侯時代)の己卯から幽王末年の庚午までは二百九十二年」とあります。しかし『竹書紀年』(今本)で武王が殷を滅ぼした時の記述を見ると辛卯の年になっているので矛盾があります。
 
 
 
次回から長い混乱の時代・東周(春秋戦国)時代に入ります。