春秋時代1 東周平王(一) 東遷 秦封侯 紀元前770年

今回から東周平王の時代です。
 
平王
幽王が殺され、諸侯が幽王の元太子・宜臼(または「宜咎」)を王に立てました。これを平王といいます。
攜という場所では王子・余臣(恐らく宣王の子、幽王の弟)が周王を名乗っていました。これを攜王といいます。
 
平王時代以降、強盛な諸侯が弱小な諸侯を兼併するようになりました。斉、楚、秦、晋等の諸侯が拡大し、政令は方伯(諸侯の長)から出るようになります。
 
 
平王元年 攜王元年
辛未 前770
 
[一] 正月、平王が即位しました。
西都(鎬京)は犬戎に近接しているため、晋侯(文侯)、衛侯(武公)、鄭伯(武公)、秦伯(襄公)が共に平王を援けて東都王城・洛邑(成周。雒邑に遷都しました。
 
平王が『文侯之命』を作り、晋文侯を侯伯(諸侯の長)に任じて秬鬯(祭祀で用いる酒)・圭瓚(玉の酒器)彤弓(赤い弓)一張り、彤矢(赤い矢)百本、盧弓(黒い弓)一張り、盧矢(黒い矢)百本、馬四頭を下賜しました。『文侯之命』は幽王十一年にも触れましたが、文侯の功績を称賛する文書です。『尚書』に収録されています。
また、平王は晋文侯と・鄭武公を慰労して「(兄弟国である晋と鄭は)子子孫孫、代々協力せよ」と書いた盟書を下賜しました。
 
武公は父・桓公(前年、犬戎に殺されました)に代わって周の司徒となりました。これは『資治通鑑外紀』『帝王世紀』の記述です。『竹書紀年』(今本)は平王三年のこととしています。
この後、鄭が周王室において大きな権力を握るようになります。
武公は司徒の職を全うしたため国人に称賛されました。鄭の変風(『詩経・鄭風』)の詩はこの頃から作られ始めたといいます。
 
衛は王室を援けた功績によって侯爵から公爵に上げられました。
 
平王が秦襄公に言いました「無道な戎が我が岐・豊の地を侵して奪ったが、秦公が戎を駆逐した。よってその地を与えよう。」
平王は襄公に岐山以西の地を与え、周と秦が共に協力することを誓って正式に諸侯に封じました。爵位は伯爵です。これ以前の秦は五爵(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)の下に位置する附庸国でした。この後、秦は諸侯と対等に使節を往来させたり宴を開くことができるようになりました。
 
[二] 平王に封侯された秦は後に始皇帝を輩出して天下を統一する秦です。ここで『史記・秦本紀』を元に秦の経歴を書きます。多くの部分は今までに紹介してきた内容です。
 
秦の先祖は五帝の一人・帝顓頊(黄帝の孫。高陽氏)といわれています。顓頊には女脩という孫娘がいました。
ある日、女脩が機織りをしていると、玄鳥(燕)が卵を落としました。女脩はその卵を吞んで感応し、大業を産みました。
大業は少典(諸侯)の娘・女華を娶り、女華は大費を産みました。大費は「栢翳」「伯翳」「伯益」ともよばれ、禹の治水を助けたことは既に書きました。帝舜は大費の功績を称えて「費よ、よく禹を助けてくれた。汝に皁游(黒旗)を与えよう。汝の子孫は大いに興隆するだろう」と言い、姚姓の玉女(美女)を娶らせました。大費はこれらを拝受し、帝舜を援けて鳥獣を飼い馴らしました。
帝舜は大費に嬴氏を与えました。

大費は二人の子を産みました。一人は大廉といい、鳥俗氏の祖です。もう一人は若木といい、費氏の祖です。
若木玄孫を費昌といい、その子孫は中国(中原)や夷狄の地に分かれて住むようになりました。費昌は夏王朝最後の王・桀の時代の人物で、夏を去って商に帰順し、成湯の御者になって鳴條で桀を破りました。

大廉の玄孫を孟戯と中衍(仲衍)といい(または「孟戯中衍」で一人の名)、体は鳥のようで人の言葉を話しました鳥身人言)。行動が速く中原の言葉を理解していたという意味かもしれません。商王朝の帝太戊がそれを聞いて仲衍を御者にすることを卜ったところ、吉と出ました。そこで中衍を御者とし、妻を娶らせました。
太戊以降、中衍の子孫は商王室に仕えて功績を立て、多くの嬴姓の者が世に現れて諸侯に立てられました。
 
中衍の玄孫を中潏(または「中滑」)といいます。西戎に住み、西垂(西方の辺境)を領有しました。中潏は蜚廉を産み、蜚廉は悪来を産みました。蜚廉は足が速く、悪来は強力を持ち、どちらも商王朝最後の王・紂に仕えました。
周武王が紂を討伐した時、悪来は殺されましたが、蜚廉は北方にいたため乱から逃れることができました。この時のことは既に書いたので再述しません。
 
蜚廉には季勝という子もいました。季勝は孟増を産みました。
孟増は西周の成王に信任され、宅皋狼とよばれました。皋狼という場所に住んでいたようです。宅皋狼は衡父を産み、衡父は造父を産みました。
造父は御術に長けており、繆王(穆王)に重用されました。驥(赤い馬)、温驪(または「盗驪」。浅黄の馬)驊駵(鮮紅の馬)、騄耳(緑の馬)といった名馬を御して功績を立てたため、穆王は造父を趙城に封じました。
造父に関しても既に述べたので省略します。
蜚廉が季勝を産んでから五世で造父に至り、嬴姓から分かれて趙に住みました。その子孫は趙氏を名乗りました。
 
悪来は殺されましたが、女防という子がいました。女防は旁皋を産み、旁皋は太几を産み、太几は大駱を産み、大駱は非子を産みました。造父が穆王に重用されたため、悪来の子孫も皆、趙城に住んで趙氏を名乗りました。
非子は犬丘に住んで馬や家畜を飼育していました。それを聞いた孝王は非子に汧水と渭水の間で馬を管理させます。その結果、馬が大いに繁殖したため、孝王は非子に嬴姓を与え、周の附庸の地である秦に封じ、嬴氏の祭祀を継がせました。非子は秦嬴と号します。
 
秦嬴は秦侯を産みました。秦侯は在位十年で死に、子の公伯が継ぎました。公伯は在位三年で死に、子の秦仲が継ぎました。
秦仲三年、厲王が無道なため諸侯が離反し始めました。西戎も周王室に叛し、犬丘に住む大駱の一族を滅ぼします。
宣王が即位すると秦仲は大夫に任命されて西戎を討伐しました。しかし秦仲は西戎に殺されました。秦仲二十三年のことです。
秦仲には五人の子がいました。長兄が荘公です。宣王は荘公兄弟五人に兵七千を与えて西戎を討たせ、破りました。宣王は秦仲が保有していた地と先祖の大駱が住んでいた犬丘の地を荘公に領有させ、西垂大夫に任命しました。
 
荘公は西犬丘に住み、三子を産みました。長男を世父といいます。世父は弟に太子の地位を譲って戎を討伐しました。
荘公は在位四十四年で死に、世父の弟が即位しました。襄公といいます。
襄公元年、妹の繆嬴を豊王に嫁がせました。豊王というのは豊邑附近に住む戎族の主のようです。
襄公二年、戎族が犬丘の世父を包囲しました。世父は反撃しましたが捕虜になります。一年余して世父は釈放されました。
襄公七年の春、西戎・犬戎と申侯が周都を攻撃し、幽王を酈山の麓で殺しました。
襄公は兵を率いて周を援け、尽力して功を立てました。
新たに即位した平王は犬戎を避けて東の雒邑洛邑に遷りました。この時も襄公は兵を出して平王を護衛しました。
そこで平王は襄公を諸侯に封じ、岐以西の地を与えました。
 
尚、『竹書紀年』(今本)には「犬戎を駆逐して平王の即位を助けた功績によって、周王室が秦と晋に邠と岐の田地を下賜した」とあります。晋に与えられた土地がどのあたりになるのかははっきりしません。
また、『資治通鑑前編』には「秦を諸侯に封じ、岐豊の地を与えた」「秦襄公に岐西を与え、晋文侯に河内を治めさせた」とあります。
 
秦封侯の年ですが、『竹書紀年』(今本)は平王二年、『史記・十二諸侯年表』は幽王十一年に書いています。平王元年(襄公八年)のこととしているのは『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』です。
 
[三] 秦襄公が駵駒(たてがみが黒い赤馬)、黄牛、牡羊それぞれ三頭を犠牲にして西畤で上帝(天帝)を祀りました。これは『史記・秦本紀』の記述です。
資治通鑑外紀』によると、襄公は西垂の諸侯だったため、少皥黄帝の子。金天氏。西方の神)を主とし、西畤を造って白帝を祀ったと書いています。白は金徳の色で、金徳は西を象徴します。また、『資治通鑑外紀』では犠牲に用いたのは駵駒、黄牛、羝羊各一頭となっています。
史記・十二諸侯年表』も「白帝(西方の神)を祀った」と書いています。
 
[四] 平王が晋侯と鄭伯に命じて鄶・虢十邑を取らせました。
以前、鄭桓公が鄶を襲おうとしましたが、その前に鄶の豪族・良臣や辯智・勇敢な士を調べ、その官爵・姓名を全て書き取らせました。桓公は鄶攻略後、良田を彼等に与えると約束し、郭門(外城の門)の外に祭壇を築いて姓名を書いた書を埋め、鶏や豚を犠牲にして盛大な誓いの儀式を開きました。
それを知った鄶の主君は国内に内通者がいると思い、良臣を全て殺してしまいました。
武公の代になって鄭は鄶を滅ぼし、史伯が言った十邑の地(幽王九年参照)を全て占領しました(但し、十邑のうち虢の攻略は平王四年のことです)。鄭は前(南)は潁水、後ろ(北)黄河、右(西)は洛水、左(東)は済水に囲まれ、芣山・山を祭り、溱水・洧水の水を飲む国となります。
 
西周幽王二年に『竹書紀年』(今本)の記述として、晋文侯と鄭桓公が鄶を攻略したと書きました。しかしこれは「幽王二年」ではなく「晋文侯十二年(平王二年)」の誤りで、「鄭桓公」も実際は「武公」のことを書いているとする説もあります。『竹書紀年』は戦国時代に魏国で書かれた書なので、魏の前身にあたる晋の年数が頻繁に使われています。
資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』はこの出来事(鄭の鄶攻撃)平王元年に書いているので、それに従いました。



次回に続きます。

春秋時代2 東周平王(二) 衛武公 攜王滅亡 前769~750年