春秋時代2 東周平王(二) 衛武公 攜王滅亡 前769~750年

今回は東周平王の続きです。
 
平王二年 攜王二年
壬申 前769
 
[一] 『竹書紀年』(今本)はこの年に秦が西畤を造って白帝を祀ったとしています。しかし『史記・秦本紀』『史記・十二諸侯年表』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』とも平王元年に書いているので、前年に記述しました。
 
[二] 魯孝公が在位二十七年で死にました。伯御の時代を合わせたら三十八年になります(宣王三十二年参照)。孝公の子・弗湟(または「弗生」「弗皇」)が立ちました。これを恵公といいます。
 
[三] 刑侯が北戎を大破しました。
 
 
 
平王三年 攜王三年
癸酉 768
 
[一] 斉が祝を滅ぼしました。
 
 
 
平王四年 攜王四年
甲戍 767
 
[一] 燕頃侯が在位二十四年で死に、子の哀侯が立ちました。
 
[二] 鄭武公が虢国を滅ぼしました。
「虢」については幽王九年にも書きましたが、周文王の二人の弟が「東虢」と「西虢」に封じられたところから始まります。この年に滅ぼされたのは鄭に近接する東虢です。
西虢は陝西にありましたが、平王の東遷に伴って河南に移動し、黄河をはさんで「北虢」と「南虢」と呼ばれるようになりました。よって「西虢」「北虢」「南虢」は一つの国です。代々周王室で重臣を出し、攜王・余臣を擁立したのもこの西虢だと思われます。
西虢は後に晋に滅ぼされます。
 
 
 
平王五年 攜王五年
乙亥 766
 
[一] 秦襄公十二年、襄公が戎を討伐しましたが、岐に至って軍中で死にました。子の文公が立ちました。
 
[二] 宋戴公が在位三十四年で死に、子の武公・司空が立ちました。
武公には娘がおり、魯恵公の夫人になりました。魯桓公の母にあたります(『史記・宋微子世家』)
 
 
 
平王六年 攜王六年
丙子 765
 
六年
[一] 秦文公元年、文公が西垂宮に住みました。
 
[二] 燕の哀侯が在位二年で死に、子の鄭侯が立ちました。
 
[三] 鄭は周の史伯が言った十邑を全て併合しました。十邑は(平王元年)、虢(東虢。平王四年)と鄔・弊・補・丹・依・畴・歴・莘(幽王九年参照)になります
この年(鄭武公六年)、鄭は溱水と洧水の間に遷りました。
 
 
 
平王七年 攜王七年
丁丑 前764
 
[一] 楚子(子爵)・熊儀(若敖)が在位二十七年で死に、子の熊坎が立ちました。号して霄敖といいます。
 
 
 
平王八年 攜王八年
戊寅 763
 
[一] 鄭武公が大夫・関其思を殺しました。
韓非子・説難』に関其思が出てきます。鄭武公は胡国を攻略しようと考え、まず娘を胡君に嫁がせました。胡君を油断させるためです。その後、武公が群臣に問いました「わしは兵を用いようと思うが、誰を討つべきだろうか。」
大夫・関其思が言いました「胡を討つべきです。」
武公は怒って関其思を殺し、こう言いました「胡は兄弟国だ。なぜ討つことができるというのだ!」
これを聞いた胡君は鄭国との友好を信じて防備を怠りました。そこで鄭国は胡国を急襲し、その地を奪いました。
 
[二] 秦文公が兵七百人を率いて東方に狩りに行きました。
 
 
 
平王九年 攜王九年
己卯 前762
 
[一] 秦文公が汧水と渭水が合流する場所で「以前、周は我が祖先・秦嬴(非子)にこの地を与え、後に秦はついに諸侯になることができた」と言い、土地の吉凶を卜いました。その結果、吉と出たため、城邑を築きました。
これは『史記・秦本紀』の記述です。『竹書紀年』(今本)は平王十年(翌年)に「秦が汧水と渭水の間に遷った」と書いています。
 
[二] 蔡釐侯が在位四十八年で死に、共侯・興が立ちました。
 
[三] 宋武公四年、狄人の国・鄋瞒(防風氏の子孫の国といわれています)が宋国を攻撃したため、司徒・皇父充石(皇父は字、充石が名。宋戴公の子。武公の兄弟)が兵を率いて抵抗しました。耏班が御者に、公子・谷甥が車右に、司寇・牛父が駟乗(通常の戦車は三人乗りでしたが、四人乗ることもありました。四人目を駟乗といいます)になります。
宋軍は長丘で狄人を破り、長狄縁斯を捕えましたが、皇父、谷甥、牛父が戦死してしまいました。
武公は生き残った耏班を賞して城門で取る税を徴集する権利を与えました。この城門は耏門とよばれます。
 
史記』の『宋微子世家』『十二諸侯年表』はこれを昭公四年(前616年)に書いていますが、『宋微子世家』の注釈(索隠)は「昭公」ではなく「武公」の誤りとしており、『春秋左氏伝』も「宋武公の時代」としてこの戦いを紹介しています(文公十一年)
 
 
 
平王十年 攜王十年
庚辰 761
[] 『史記・鄭世家』によると、この年(鄭武公十年)、武公が申侯の娘を娶って夫人にしました。この夫人を武姜といいます。
武姜は太子・寤生と少子・段(叔段)を産みました。
武姜は難産だった寤生を愛さず、段を愛しました。
史記・十二諸侯年表』は、武公十四年(東周平王十四年・前757年)に寤生が、武公十七年(平王十七年・前754年)に太叔段が産まれたとしています。
 
 
 
平王十一年 攜王十一年
辛巳 前760
 
[一] 蔡共侯が在位二年で死に、子の戴侯が立ちました。
 
[二] 曹恵伯が在位三十六年で死に、子の石甫が立ちましたが、その弟・武が石甫を殺して自立しました。これを繆公(穆公)といいます。
 
 
 
平王十二年 攜王十二年
壬午 前759
 
 
 
平王十三年 攜王十三年
癸未 前758
 
[一] 衛武公が在位五十五年で死にました。
武公は九十五歳になっても国人にこう命じました「卿以下、師長(大夫)、列士に至るまで、朝廷に居る者は皆、わしを老齢とみなして諫言を棄ててはならない。恭しく慎重に政務に臨み、朝から夜までわしを戒めよ。例え一二言だけだとしても、わしを諫める声を聞いたら全て覚えて記録し、わしに伝えて訓導せよ。」
武公が車に乗れば衛士が諫言し、朝廷に居る時は官員が典礼を用いて戒め、机を前にして政務を行う時は誦訓の官が諫め、寝宮では近臣が意見を述べ、出兵や祭祀の際には太師や太史が進言し、朝廷から退いて休憩している時は楽師が戒めを詠みました。また、史官は正確な記録を漏らさず書き残し、楽師は隠すことなく諫言を誦み伝えました。
詩経・大雅』の『抑』は武公が自分を戒めるために作った詩といわれています。
衛の人々は武公を称賛し、『詩経・衛風・淇奥(淇澳)』を作りました。

この年、武公が死んで子の荘公・楊(または「揚」)が立ちました。
 
[二] 楚の霄敖が在位六年で死に、子の熊眴が立ちました。これを蚡冒といいます。
 
 
 
平王十四年 攜王十四年
甲申 757
 
[一] 晋が韓を滅ぼしました。この韓は周王室と同じ姫姓で、宣王が関係を強化した辺境の国です(宣王四年、前824年参照)
 
[二] 曹繆公(穆公)が在位三年で死に、子の桓公・終生(または「」)が立ちました。
 
 
 
平王十五年 攜王十五年
乙酉 前756
 
[一] 秦文公十年、秦が鄜畤を造り、三牢(牢は祭祀に使う犠牲)を用いて郊外で白帝を祭りました(郊祭)
これ以前、雍城の傍には呉陽武畤があり、雍城東には好畤がありましたが、どちらも祀る者がいなくなり、荒廃していました。
ある人はこう言いました「古くから雍州は土地が高く、神明が集まる場所だったため、畤を建てて上帝を祀ってきたし、その他の諸神の祠も集まるようになった。だいたい黄帝の頃から祭祀が行われるようになり、晩周にも郊祭は行われていた。」
 
 
 
平王十六年 攜王十六年
丙戍 前755
 
[一] 陳平公が在位二十三年で死に、子の文公・圉が立ちました。
 
 
 
平王十七年 攜王十七年
丁亥 754

[] 『史記・陳杞世家』によると、この年、陳文公が蔡女を娶りました。『陳杞世家』は蔡女が公子・佗を産んだとしていますが、『春秋左氏伝』と異なります。東周桓王十四年(前706に再述します。
 
 
 
平王十八年 攜王十八年
戊子 前753
 
[一] 秦文公十三年、秦で紀事(歴史の記録)が始まりました。戎に近い生活をしていた秦も中原の文明国に近づき、民が教化に服すようになります。

[] 『史記・衛康叔世家』によると、この年、衛荘公が斉女を娶って夫人にしまた。斉女は美人でしたが子ができませんでした(東周平王三十年・741年に再述します)


 
平王十九年 攜王十九年
己丑 752
 
 
 
平王二十年 攜王二十年
庚寅 前751
 
[一] 杞国では西周武王に封侯された東楼公(夏禹の後裔)西楼公を産み、西楼公が題公を産み、題公が謀娶公(または「謨娶公」「諜娶公」)を産みました。謀娶公は西周厲王の時代にあたります。この年、謀娶公が死んで子の武公が立ちました。ここから杞国の年代記が始まります。
 
 
 
平王二十一年 攜王二十一年
辛卯 750
 
[一] 蔡戴侯が在位十年で死に、子の宣公・考父(または「措父」「楷論」)が立ちました。
 
[二] 秦文公が岐で戎軍に大勝しました。戎族は逃走し、秦が周の遺民を集めます。凱旋した文公は岐以東の田地を周王室に返しました。
これは『史記・秦本紀』『資治通鑑外紀』等の記述です。『竹書紀年』(今本)は宣王十八年のこととしています。
 
[三] 晋文侯が王子・余臣攜王)を攜で殺しました。分裂していた周が統一されます。
これは『今本竹書紀年』の記述です。『古本竹書紀年』には「二十一年,攜王為晋文公(文侯)所殺」とありますが、この「二十一年」が周平王の年数か晋文侯の年数かはっきりしません。晋文侯二十一年だとしたら、平王の十一年になります。



次回に続きます。

春秋時代3 東周平王(三) 曲沃の桓叔 京城の太叔 前749~730年