春秋時代3 東周平王(三) 曲沃の桓叔 京城の太叔 前749~730年

今回も平王の時代です。
 
平王二十二
749年 壬辰
 
 
 
平王二十三年
癸巳 前748
 
[一] 宋武公が在位十八年で死に、子の宣公・力が立ちました。
 
 
 
平王二十四年
甲午 前747
 
[一] 秦文公十九年、文公が「若石」を得ました。「若石」は「石のような物」という意味で、陳倉北阪の城邑で祀られていました。「若石」には神霊が宿っていたといいます。神霊は一年経っても来ないこともあれば、一年で何回も現れることもありました。夜、流星のように東南から現れて祠城に集まり、雄鶏のように鳴きます。その声が響き渡ると夜の間に野鶏も併せて鳴き始めました。
文公は一牢(祭祀用の動物一頭)を使って祭り、「陳宝」と名付けて新たに祠を造りました。
 
 
 
平王二十五
乙未 746
 
[一] 晋文侯が在位三十五年で死に、子の昭侯・伯が立ちました。
絳から翼に遷都しました(平王四十年に再述します)
 
[二] 秦が初めて族刑(罪が三族に及ぶ刑)を用いました。
 
 
 
平王二十六
丙申 745
 
[一] 晋が乱れ始めます。
晋昭侯元年、昭侯が叔父(文侯の弟)・成師を晋都・翼より大きい曲沃に封じました。これを桓叔といいます。桓叔はこの時五十八歳で、徳を修めて人心を集めました。靖侯の庶孫・欒賓(欒叔)が桓叔を補佐します。
晋国の多くの人が桓叔に帰心するようになったため、師服が嘆いて言いました「晋の乱は曲沃にある。国とは本が大きく末が小さいから安定できるのだ。だから天子は諸侯の国を建て、諸侯は家を立て(卿大夫に采邑を与え)、卿は側室(卿の宗室子弟から選んだ官)を置き、大夫は貳宗(大夫の宗室子弟から選んだ官)を置き、士には隸子弟があり(士の子弟は隷役し)、庶人・工・商にもそれぞれ親疎や等級がある。こうして民が上に服し、下が過分な要求をしないようにすることができるのだ。今、晋は甸侯(甸服の諸侯)に過ぎないのに別の国を建てた。末が本より大きく、しかも末が民心を得ているようでは、乱れないはずがない。」
 
詩経・唐風』の『椒聊』は子に恵まれた女性を歌っていますが、徳を持つ曲沃の桓叔が強大になり子孫に福をもたらすことを比喩した詩ともいわれています。
 
[二] 陳文公が在位十年で死に、長子の桓公・鮑が立ちました。
 
 
 
平王二十七
丁酉 744
 
[一] 鄭武公が在位二十七年で死に、子の荘公・寤生が継ぎました。
史記・鄭世家』によると、武公が病に倒れた時、夫人の武姜が少子・段を太子に立てるように請いました。しかし武公は拒否したため、武公の死後、寤生が即位しました
 
 
 
平王二十八
戊戍 743
 
[一] 鄭荘公元年、祭仲が鄭国の相になりました。
 
荘公が弟の段(「叚」「聖」と書くこともあります)を京邑に封じました。
以前、鄭武公(荘公の父)は申の姜氏(武姜)という女性を娶り、寤生(荘公)と段(共叔)が産まれました。寤生は逆子で難産したため、姜氏は憎んで「寤生」という名にしました。「逆子」という意味です。
姜氏は弟の段を可愛がり、太子に立てるために武公を説得しようとしましたが、武公は同意しませんでした。
武公が死に荘公が即位すると、姜氏は段に制という地を与えるように要求しました。荘公が言いました「制は険峻な場所で、虢叔があそこで死にました。他の邑なら命令に従います。」
姜氏が大邑の京を求めると、荘公は同意しました。段は京に住み、京城の太叔(大叔)とよばれるようになります。
 
祭仲が荘公に言いました「都城(城邑)とは城壁の長さが百雉(三百丈。一雉は三丈)を越えたら国の害になるものです。先王が定めた制度では、大都(大きな城邑)は国都の三分の一を超えず、中都は五分の一、小都は九分の一を超えないものとされています。京城はこの制度から外れています。主君(荘公)はやがて堪えることができなくなるでしょう。」
荘公が聞きました「姜氏が欲しているのだ。害を避ける方法はないか?」
祭仲が答えました「姜氏が満足することはないでしょう。早く手を打つべきです。禍根を蔓延させてはなりません。蔓延した雑草は取り除くことが大変です。主君の寵弟ならなおさらでしょう。」
荘公が言いました「不義を多く行えば自ら倒れるものだ。暫く様子を見よう。」

以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・鄭世家』にはこうあります。
祭仲が荘公に言いました「京は国都より大きいので、子を封じるべきではありません。」
が言いました「武姜が欲しているのだ。それに逆らうことはできない。」
段はに行くと武器を集め、武姜襲撃を謀り始めました
 
 
 
平王二十九
己亥 742
 
 
 
平王三十
庚子 741
 
[一] 楚の蚡冒が在位十七年で死にました。子の熊通が太子を殺して自立します。熊通は蚡冒の弟ともいいます。
熊通は後に王を名乗り周桓王十六年・楚武王三十七年・紀元前704年)、武王と諡されました。
 
[二] 以前、衛荘公は斉国の東宮(太子)・得臣の妹を娶りました(『史記・衛康叔世家』は衛荘公五年・東周平王十八年・前753年の事としています)。荘姜といいます。荘姜は美人でしたが子ができませでした。衛人は美しい荘姜を歌って『碩人』を作りました。『詩経・衛風』に収録されています。
後に荘公は陳から夫人を娶りました。厲嬀といい、太子・孝伯を生みましたが早死にしました。厲嬀と共に衛に来た妹の戴嬀も子・完を生みました。完は荘姜が自分の子として育てました
 
荘公の嬖人(愛妾)も子を産みました。公子・州吁といいます。荘公は州吁を寵愛しました。
州吁は軍事を好み暴虐な行いをしましたが、荘公はそれを抑えようとしませんでした。荘姜は州吁を嫌うようになります。
石碏が荘公を諫めて言いました「子を愛するのなら義方(道義)を教え、誤った道に進ませてはならないといいます。驕、奢、淫、逸は邪であり、この四者は過度な寵愛と賜与から生まれます。州吁を後継ぎにするのなら早く定めるべきです。そのつもりがないのに今のままにしていたら禍を招きます。寵愛されて驕ることなく、驕っても地位を落とすことができ、地位が落ちても怨まず、怨んでも自分を抑えることができるという人は少ないものです。卑賤が高貴を妨げ、年少の者が年長の者を凌駕し、疎遠な者が親近な者を離間させ、新しい者が古い者を離間させ、小が大を超え、淫が義を破る、これを六逆といいます。君に義があり、臣が君に従って行動し、父が慈愛をもち、子が孝を尽くし、兄が愛し、弟が敬う、これを六順といいます。順を除いて逆を選んだら禍を速めることになります。人の君となる者は禍を除く努力をしなければなりません。しかし今は逆に禍を速めています。このままではいけません。」
荘公は諫言を無視しました。
 
大夫・石碏の子・石厚が州吁と親しくしました。石碏が反対しましたが、石厚は聞き入れませんでした。
 
 
 
平王三十一
辛丑 前740
 
[一] 『史記・衛康叔世家』によると、この年、衛荘公は庶子州吁に兵を指揮させようとしました。
衛の上卿・石碏が荘を諫めて庶子(戦)を好みます。彼を将にしたら、乱が起きる原因になりますと言いましたが、荘公は聞きませんでした
 
 

平王三十二年
壬寅 739
 
[一] 晋昭侯七年、大臣・潘父が昭侯を殺して曲沃の成師(桓叔)を迎え入れましたが、晋の国人が兵を発して成師の入国に抵抗し、昭侯の子・平を立てました。これを孝侯といいます。晋人は潘父を殺しました。
 
[二] 秦文公二十七年、秦が南山の大梓・豊・大特(全て戎族)を討ちました。
 
 
 
平王三十三年
癸卯 前738
 
[一] 楚が申国を侵しました。申国は陳、鄭の南にあり、周王室が衰えてからしばしば楚の侵攻を受けるようになったようです。
 
 
 
平王三十四
甲辰 737
 
 
 
平王三十五
乙巳 736
 
 
 
平王三十六年
丙午 735
 
[一] 衛荘公が在位二十三年で死に、子の桓公・完が立ちました。
大夫・石碏が州吁による禍乱を避けて引退しました。
 
 
[二] 平王が申国に守備の兵を送りました。
 
 
 
平王三十七
丁未 734
 
 
 
平王三十八 
戊申 733
 
[一] 衛桓公の庶弟・州吁が驕慢奢侈だったため、桓公が州吁を叱責して退けました。州吁は出奔しました。
 
 
 
平王三十九
己酉 732
 
 
 
平王四十
庚戍 前731
 
[一] 斉荘公が在位六十四年で死に、釐公・禄父(禄甫)が立ちました。
 
[二] この年(『史記』の『晋世家』では晋孝侯八年、『十二諸侯年表』では孝侯九年)、曲沃の桓叔・成師が死にました。子の鱓が立ちます。これを荘伯といいます。
『竹書紀年』(今本)の注釈によると、この後、晋侯は翼に住み、翼侯と称しました。
晋昭侯が即位して翼に遷ったことは平王二十五年に書きました。『資治通鑑外紀』を元にしています。しかし『史記・晋世家』の注釈(索隠)を見ると、「孝侯から翼侯と号した」と書かれています。
いつから翼侯を称するようになったのかはっきりしません。
 
 
 
平王四十一
辛亥 730
 
[一] 春に大雪が降りました。これは『竹書紀年』(今本)の記述を元にしています。原文は「春不雨雪(春に雪が降らず)」ですが、「不」は「大」の誤字といわれています。
資治通鑑外紀』は「晋不雨雪」と書いていますが、恐らくこれは『竹書紀年』(今本)を元にしており、「大雨雪」の誤りです。
 

次回に続きます。