春秋時代4 東周平王(四) 鄭の内乱 前729~722年

今回も平王の時代です。
 
平王四十二
壬子 前729
 
[一] 燕の鄭侯が在位三十六年で死に、子の繆侯(穆侯)が立ちました。
 
[二] 宋宣公には与夷という太子がいました。宣公が病になると、弟・和に言いました「父が死んだら子が継ぎ、兄が死んだら弟が継ぐというのは、天下の通義である。わしは弟に位を譲る。」
宋は商王室の子孫の家系で、商王朝には「兄から弟」という継承が行われていました。宣公はそのしきたりに従うことにしたようです。弟の和は再三辞退した後、受け入れました、
宣公が在位十九年で死に、和が立ちました。これを穆公といいます。
 
[三] 狄人(翟人)が翼を攻め、晋の郊外に至りました。
 
[四] 魯恵公四十年、恵公が宰讓を周に派遣して郊廟の礼についてうかがいました。「郊」は郊外で天を祀る儀式、「廟」は宗廟を祀る儀式です。
平王は史角(太史・角)を魯に派遣して儀礼について教え、恵公は史角を魯に留めました。
呂氏春秋・仲春紀・当染篇』によると、史角の子孫も魯に住み、戦国時代の思想家・墨子が教えを請うたそうです。
 
 
 
平王四十三
癸丑 728
 
 
 
平王四十四
甲寅 727
 
[一] 鄭叔・段京城の太叔)が西境と北境に命じ、鄭荘公と自分が出す双方の指示に従わせました。
大夫・子封(公子・呂)が荘公に言いました「一国に二つの命令があってはなりません。主君はどうするおつもりですか。大叔に位を譲るのなら、臣は大叔に従います。もしも位を譲らないのなら、大叔を除くべきです。民心に迷いを生ませてはなりません。」
荘公が言いました「その必要はない。禍は自然に訪れる。」
 
やがて太叔は荘公と太叔の両方に属している地域を自分の邑とし、廩延まで領土を拡大しました。
子封が荘公に言いました「動くべきです。領地が拡がれば人も集まります。」
荘公が言いました「主君に対して不義であり、兄に対して不親(親しまない)であれば、人が集まることはない。領地が拡がってもいずれ崩壊する。」
 
 
 
平王四十五
乙卯 726
 
 
 
平王四十六
丙辰 725
 
 
 
平王四十七
丁巳 724
 
[一] この年(『史記』の『晋世家』では晋孝侯十五年、『十二諸侯年表』では孝侯十六年)、曲沃の荘伯が翼を攻めて孝侯を殺しました。しかし晋人は荘伯を駆逐し、孝侯の子(または弟)・郤(郄)を立てました。これを鄂侯といいます。
曲沃は何回も国君の地位を狙って敗退しましたが、更に強盛になりました。
 
 
 
平王四十八
戊午 723
 
[一] 晋で雲がないのに雷が落ちました。
十月、晋鄂侯元年、曲沃荘伯八年、荘伯が翼を攻めました。しかし晋の公子・万が翼を救って荘伯を撃退し、荀叔軫が家谷まで追撃しました。
これは『古本竹書紀年』の記述を元にしました。『今本竹書紀年』は桓王元年(前719年)に書いています。
「十月」ではなく曲沃荘伯十年(平王五十年)のこととする説もあります。
 
[二] 魯恵公が在位四十六年で死にました。
 
史記・魯周公世家』によると、魯恵公の適夫人(正妻)には子ができず、賎妾・声子との間に息(息姑)という子が生まれました。息は恵公の長庶子になります。
成長した息は宋の女性を娶ることになりました。しかし宋女が魯に入った時、恵公はその美貌に惹かれて自分の妻としました。やがて宋女が允(または「」)を産んだため、恵公は宋女を夫人(正妻)とし、允を太子に立てました。
恵公が死んだ時、太子・允はまだ幼かったため、魯人は長庶子の息を立てました。
息が国政を行うことになりましたが、あくまでも太子・允が成長するまで国君の代わりを勤めるつもりです。そのため即位という言葉は使いませんでした。息は隠公といいます。
 
『春秋左氏伝』の記述は少し異なります。
恵公の元妃(正妻)孟子といいました。孟子が死ぬと恵公は妾の声子を娶って息姑を産みました。
宋の武公には仲子という娘がいました。仲子は産まれた時、掌に「為魯夫人(魯の夫人となる)」という模様がありました。そこで成長した仲子は魯の恵公に嫁ぎ、允を産みました。允は太子に立てられます。
恵公が死ぬと幼い太子・允の代わりに息姑が摂政することになりました。これを隠公といいます。諡号の「隠」は正式に即位していないことを表します。
 
この頃、魯が黄という場所で宋軍と戦い、勝利しました。
 

平王四十九
己未 前722
 
[一] 魯隱公元年です。孔子が編纂した史書『春秋』の記載がこの年から始まります。
この年を春秋時代の始めとすることもあります。
 
[二] 三月、魯隠公が邾子(邾国の主。子爵)・克と蔑で会盟し、関係を強化しました。
邾子・克は周王室から正式に封爵されていなかったようで、『春秋』には「邾儀父」とあります。「儀父」は尊敬を表します。
しかし『竹書紀年』(今本)には「邾荘公」と書かれています。
資治通鑑外紀』によると邾は曹姓の国で、西周武王が陸終(顓頊の子孫。帝嚳時代の祝融・呉回の子)の第五子・晏安の後裔にあたる挾という者を邾に封じたところから始まります。但し、五爵(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)の下の附庸国です。挾から十二世で邾子・克(儀父)の代になりました。
 
[三] 夏四月、魯の費伯が師(軍)を率いて郎に築城しました。隠公の指示ではなく、勝手に行ったようです。
 
[四] 鄭荘公二十二年、太叔・段(荘公の弟)が城壁を修築し、兵と食糧を集め、武器を整えました。鄭の国都を襲う準備が進められます。母の姜氏が内応して城門を開けることになりました。
それを聞いた荘公は「今こそ動く時だ」と言い、子封に車二百乗を率いて京を討たせました。京の人々は大叔・段から離反します。大叔・段は鄢に遷りました。荘公は鄢を討伐します。
 
五月、鄭伯が太叔・段を鄢で破りました。
『春秋左氏伝(隠公元年)』によると、辛丑(二十三日)、太叔は共に出奔しました。この後、太叔・段は共叔とよばれます。
資治通鑑外紀』には衛から出奔した州吁が太叔に交友を求めたとあります(『史記・衛康叔世家』が元になっています)
しかし『古本竹書紀年』には「鄭荘公が公子・聖(段)を殺した」と書かれています。
荘公に敗れた太叔・段がどうなったのかはよく分かっていません。
 
荘公は母・姜氏を城穎に置き、「黄泉に至らなければ(死ななければ)会うことはない」と誓いました。しかし暫くして後悔しました。
 
[五] 秋七月、平王が宰咺を魯に送り、恵公と仲子(恵公の夫人)の賵(弔問の財物)を贈りました。
当時の礼では、天子が死んだら七カ月で葬儀を行い、諸侯は全て参加する必要がありました。また、諸侯は死後五カ月で葬儀を行い、同盟国の諸侯が参加することになっており、大夫は三カ月で、官位が同等な者が参加し、士は一月後で、外姻(親戚)が参加することになっていました。魯の恵公が死んだのは前年のことで、この年も既に秋に入っているので、平王の弔問は遅すぎます。また、仲子が死ぬのは翌年の事なので、平王は事前に弔問をしたようです。どちらも礼から外れている行為でした。
 
[六] 八月、紀国が夷国姓の国)を攻めました
 
[七] 蜚(害虫)が現れましたが、被害はありませんでした。
 
[八] 魯恵公の晩年、魯は宋と戦って黄という場所で破りました(前年書きました)
隠公は即位すると宋に関係改善を求めました。
九月、魯人(大夫)と宋人(大夫)が宿で会盟し、講和しました。
 
[九] 冬十月庚申(十四日)、魯が恵公を改葬しました。恵公が死んだ時は宋と戦っており、太子・允も幼かったため、簡単な葬儀しかできなかったようです。そこで今回、改めて葬儀を行いました。しかし太子・允の代わりに政治を行っている隠公は喪主になることを避けて葬儀に参加しませんでした。衛武公が葬儀に参加しましたが、隠公に会えませんでした。
 
[十] 鄭で共叔の乱が起きた時、公孫滑(段の子)が衛に奔りました。
衛は公孫滑を援けて鄭を攻撃し、廩延を奪いました。
 
鄭荘公は王師と虢師を率いて衛の南境に進軍しました。この虢は文王の弟・虢叔の子孫の国で、西虢です。
鄭は邾にも出兵を請いました。邾子・克は秘かに使者を送って魯の大夫である公子・豫と相談します。公子・豫が出兵を望みましたが隠公は同意しませんでした。公子・豫は隠公の命令がないのに兵を出し、邾・鄭と翼で会盟しました。
 
[十一] 魯が南門を造りました。
 
[十二] 冬十二月、祭伯が魯を訪問しました。祭伯は祭国の伯爵で、周王の卿士です。平王の命令がないのに勝手に魯を訪問したようです。
王命がないのに一国の大夫が別の諸侯の国を訪問することは非礼とされていました。
または魯に亡命したという説もあります。
 
[十三] 魯の公子・益師(字は衆父。孝公の子)が死にました。
 

次回に続きます。

春秋時代5 東周平王(五) 鄭周対立 前721~720年