春秋時代5 東周平王(五) 鄭周対立 前721~720年

今回で平王の時代が終わります。
 
平王五十年
庚申 前721
 
[一] 鄭荘公は母・姜氏と会わないと誓ったことを後悔していました。
潁谷の封人(国の境界を守ったり城壁を修築する官)・潁考叔がこれを聞き、貢物を持って荘公に謁見しました。荘公は潁考叔に食事を与えましたが、潁考叔は肉に箸をつけようとしませんでした。荘公がその理由を問うと潁考叔が言いました「小人(私)には母がおり、いつも小人が食べる物を食べるだけで、主君の羹(あつもの)を食べたことがありません。これを母のために持って帰りたいのです。」
荘公が言いました「汝にはそのような母がいるが、わしにはいない。」
潁考叔が「それはなぜですか?」と聞くと、荘公は事情を話し、後悔していると言いました。
そこで潁考叔が言いました「悩むことはありません。地下道を掘って泉に達し、その中で会えば、誓いを破ったと言う者はいないでしょう。」
荘公はこれに従いました。
荘公が地下に入って賦を詠みました「地下の中で会うのも楽しいことです(大隧之中,其楽也融融)。」
姜氏が地下から出て賦を詠みました「地下の外も楽しいものです(大隧之外,其楽也洩洩)。」
こうして荘公と姜氏は母子の関係を取り戻しました。
 
[二] 春、魯隠公が潜という場所で戎人と会い、恵公時代に結んだ友好関係を強化しました。戎は正式に盟を結ぶことを要求しましたが、隠公は断りました。
 
[三] 莒子(莒国の主君。子爵)が向国の女性・向姜を娶りました。莒は嬴姓で少皥の子孫の国です。武王が茲輿期を封じたのが最初です。始めは計を都にしましたが、後に莒に遷りました。向は姜姓の国です。
莒に嫁いだ向姜は莒国での生活が不安で向に帰国してしまいました。
夏五月、莒子が兵を率いて向国に入り、姜氏を連れて還りました。
 
[四] 魯の卿である司空・無駭が兵を率いて極国に入り、費(魯の大夫・費伯)が極を滅ぼしました極は附庸国、または戎の邑です。
 
[五] 秋八月庚辰(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の八月には「庚辰」の日がないようです。恐らく『春秋』の誤記です)、戎が再び魯に盟を求めたため、隠公が唐の地で盟を結び、更に関係を強化しました。
 
[六] 九月、紀の国君が魯恵公の娘を娶ることになりました。紀国の卿・裂繻が魯に来ました。
冬十月、恵公の長女・伯姫が裂繻と共に紀国に行きました
 
[七] 紀の子帛(裂繻の字。または紀子伯)が密で莒子と会盟しました。莒は魯と関係が悪かったため、紀国が間に入って調整したようです。
 
[八] 十二月乙卯(十五日)、魯恵公の夫人・子氏(仲子)が死にました。
 
[九] 鄭が衛を攻めました。公孫滑(前年)討伐のためです。
 
[十] 当時、周はますます衰退し、戎が諸夏を侵しました。隴山以東や伊水、洛水周辺にも戎が住むようになります。渭首渭水の源)には狄・・邽・冀の戎がおり、涇北には義渠の戎がおり、洛川には大荔の戎がおり、渭南には驪戎がおり、伊水と洛水の間には楊拒・泉皋の戎がおり、潁首(潁水の源)以西には蛮氏の戎がいました。
 
 
 
平王五十一年
辛酉 720
 
[一] 春二月己巳(初一日)、日食がありました。
 
[二] 三月壬戌(二十四日)、平王が死にました。太子・洩父は早世したため、洩父の子・林が即位しました。これを桓王といいます。
これは『春秋左氏伝(隠公三年)』の記述です。
『春秋』経文では平王が死んだ日を「三月庚戌(十二日)」としています。
周王朝から諸侯に発せられた訃告の日付と実際に死んだ日が異なるため、史書によって異なる記述になっているともいわれていますが、詳細は分かりません。
 
平王の時代は王室が微弱になったため、詩人が怨み、王や社会を風刺しました。『大雅』の詩は作られなくなり、周の詩は王国変風(『詩経・王風』)に変わっていきました。『詩経・王風』に収録されている『黍離』から『中谷有蓷』の五篇(他の三篇は『君子于役』『君子陽陽』『揚之水』)は平王の時代に作られた詩であるといわれています(『帝王世紀』『毛詩正義』)
 
[三] 夏四月辛卯(二十四日)、魯の君氏が死にました。
君氏は声子、つまり隠公の母です。声子は恵公の正妻ではなく、隠公も正式に即位した国君ではないため、諸侯に訃報を出さず、祖廟での哭礼も行わず、位牌を祖廟に祖先に並べることをありませんでした。
 
[四] 鄭の武公と荘公は平王の卿士でした。しかし平王は秘かに虢公と親しくし、政権を預けるようになりました。鄭荘公が平王を怨むと、平王は「そのようなことはない」と言い、周王室と鄭国の間で人質を交換することにしました。周の王子・狐(平王の子)が人質として鄭に入り、鄭の公子・忽(荘公の太子)が周に送られます。
平王が死ぬと周の人々は虢公に政治を委ねました。鄭はこれに不満を持ちました。
 
四月、鄭の祭足が師を率いて温(周王畿の小国)に侵入し、麦を刈り取りました。
秋、祭足が再び兵を率いて成周洛邑で禾を刈り取りました。
周と鄭はここから関係が大きく悪化しました。
 
[五] 秋、周の大夫・武氏の子が魯に来て賻(葬儀用の財物)を求めました。平王の葬儀がまだ行われていなかったようです。
 
[六] 宋穆公九年、穆公が病にかかりました。そこで大司馬・孔父を招き、与夷(宣公の太子)を託して言いました「先君(宣公)は与夷を棄ててわしに国を譲った(東周平王四十二年・前729年参照)。わしはそれを忘れたことはない。わしの死後、先君が与夷について聞いたらどう答えればいいだろう。汝が与夷を奉じて社稷を安定させれば、たとえ死んでも悔いはない。」
孔父が言いました「群臣は馮(穆公の子)を主に仰ぎたいと考えています。」
穆公が言いました「先君はわしを賢人とみなして社稷の主とした。もし徳を棄てて位を譲らなかったら、先君の行為を無駄にすることになる。これが賢といえるか。先君の美徳を高揚するべきだ。汝によって先君の功を廃してはならない。」
公子・馮は鄭国に遷りました。
 
八月庚辰(十五日)穆公が死に与夷が立ちました。これを殤公といいます。

史記・宋微子世家』には君子(知識人)の評価が書かれています。当時の君子はこう言いました「宋宣公を知ることができた。自分のを立ててを成さしめ、自分の子にも国を享受させた
 
[七] 冬十二月、斉侯(荘公)と鄭伯(荘公)が石門で会盟して友好を強化しました。
後日、鄭伯の車が済水で横転しました。
 
[八] 癸未(二十日)、宋が穆公の葬儀を行いました。 
 
 
 
次回から東周桓王の時代に入ります。