春秋時代6 東周桓王(一) 大義滅親 前719~718年

今回から東周桓王の時代です。
 
桓王
平王の太子・洩父は早世したため、平王の死後、洩父の子・林が即位しました。これを桓王といいます。
 
 
桓王元年
壬戌 前719
 
[一] 春二月、莒が杞を攻撃し、牟婁を取りました。牟婁は「牟」と「婁」という二つの邑とする説と、「牟婁」で一つの邑とする説があります。
 
[二] 戊申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年二月に「戊申」の日はありません。恐らく「三月戊申」の誤りで、三月十六日です)、衛の州吁(東周平王三十八年・733年参照)が兄・桓公を殺して自立しました
桓公の在位年数は十六年になります。

以上は『春秋左氏伝(隠公四年)』の記述です。
史記・衛康叔世家』では鄭荘公の弟・段(太叔。東周平王四十九年722参照)が登場します。
州吁は衛からの亡人(亡命者)を集め、桓公を襲って殺しました。州吁が自ら衛に立ちます。
州吁鄭伯・段(『史記・衛康叔世家』では、州吁と段は交友関係にあります)のためにを討伐しようと思い、宋、陳、蔡に協力を求めました。国は州吁に同意しました(衛の出兵に関して『春秋左氏伝』の内容は後述します。鄭の太叔・段は出てきません)
しかし州吁は即位したばかりなのに用兵を好み、しかも桓公を弑殺したため、衛に支持されませんでした
 
[三] 魯の隠公が宋殤公と会盟し、宿の盟(東周平王四十九年・前722年)を固めようとしました。しかし会盟の日になる前に衛の乱が報告されました。
夏、魯隠公と宋殤公は清という場所で会いました。正式な会盟ではなく、簡単な会見です。
 
[四] 宋殤公が即位した時、公子・馮は鄭に遷りました(東周平王五十一年・前720年)。鄭は公子・馮を宋に返して国君に立てる方法を考えていました。
衛で即位したばかりの州吁は、先君の鄭に対する恨み(衛と鄭は敵対しています)を晴らして諸侯の理解を求め、国内の民心を掌握しようと考えました。そこで州吁は宋に使者を送り、こう伝えました「貴国が鄭を討伐するなら、貴国の害を除くことができます。敝邑(衛)は貴国を主に立てて協力し、陳、蔡を率いて従軍しましょう(陳と蔡は衛と友好関係にあります)。これは衛国の願いです。」

以上は『春秋左氏伝(隠公四年)』の記述です。『史記・宋微子世家』によると、州吁にこう伝えました「馮にいるので、必ず乱が起きます。我が国と共に討伐しましょう。」
はこれに同意しました。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
宋公(殤公)と陳侯桓公および蔡と衛の兵が鄭を攻め、東門を五日間包囲して兵を還しました。これを「東門の役」といいます。
 
[五] 魯の隠公が大夫・衆仲に聞きました「衛の州吁は成功するだろうか?」
衆仲が答えました「民とは徳によって和し、安定させるものであり、乱によって従わせるものではありません。乱を用いたら、もつれた糸をほどこうとする時のようにますます乱れてしまいます。州吁は武を好み残忍です。武を好めば大衆が従うことなく、残忍なら親しい者もできません。大衆が背き、親しい者も離れていくようでは、成功するはずがありません。武力とは火と同じです。制御しなければ自分を焼くことになります。州吁はその君を殺し、その民を虐げ、徳を建てようとせず乱によって成功を求めています。禍から逃れることはできません。」
 
[六] 秋、諸侯(宋・陳・蔡・衛)が再び鄭を討ちました。
宋殤公が魯に出兵を求めましたが、魯隠公は断りました。魯の公子・翬(大夫。字は羽父)も出兵を望みましたが、隠公は許可しません。
しかし公子・翬は自ら兵を率いて諸侯の鄭討伐に参加しました。
諸侯の軍は鄭の徒兵(歩兵)を破り、禾を奪って帰還しました。
 
[七] 衛の州吁は民を安定させることができませんでした。石厚が父・石碏(石子)に国君の地位を安定させる方法を問うと、石碏はこう答えました「王(周桓王)に朝覲すればよい。」
石厚が聞きました「どうすれば朝覲できるでしょうか。」
石碏が言いました「陳公は王の寵臣であり、陳と衛は友好関係にある。陳に頼めば朝覲も可能だろう。」
石厚は納得し、州吁と共に陳に向かいました。
しかしその間に石碏が陳にこう告げました「衛国は小さく老夫(私。大夫は七十歳を超えると「老夫」と称しました)は耄碌したため、何もできません。あの二人は確かに寡君(自国の君主)を殺害しました。この機会に二人を除いてください。」
陳人は入国した州吁と石厚を捕え、衛に処罰するよう伝えました。
九月、衛は右宰・醜を陳に派遣して濮という場所で州吁を殺しました。石碏も家宰・羊肩を陳に送って石厚を殺しました。
石碏は「大義滅親大義のために親族の情も殺す)」の忠臣と称えられています。

以上は『春秋左氏伝』の記述です。以下、『史記・衛康叔世家』からです。
衛の石碏州吁が殺した桓公人だったため、陳侯共謀しました。州吁に帰順するふりをして機会を待ちます。
州吁外に来た時、石碏右宰を送って食事を進めさせ、州吁を殺しました。

衛の人々は邢国にいた公子・晋を迎え入れて国君に立てました。公子・晋は『史記・衛康叔父世家』には桓公の弟と書かれています。恐らく桓公の同母弟だと思いますが、州吁の兄になるのか弟になるのかはわかりません。州吁の乱を避けて国を出ていたようです。
冬十二月、公子・晋が即位しました。これを宣公といいます。
 
[八] この年、衛の州吁の乱に乗じて郕国が衛を侵しました
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に晋で起きた三つの事件を書いていますが、どれも実際は違う年に起きた事のようです。
 
一、「十月、曲沃の荘伯が曲沃で叛し、晋都・翼を攻めた。晋の公子・万が翼を援け、荀叔軫が荘伯を追撃して家谷に至った。」
この出来事は平王四十八年に既に書きました。
 
二、「翼侯が曲沃を攻め、禾を焼いて還った。」
『古本竹書紀年』を見ると「(曲沃荘伯)十二年」と書かれています。荘伯十二年は翌年(桓王二年)にあたります。
 
三、「翼侯が曲沃に大勝したため、曲沃の武公が翼に講和を求め、桐に至って引き上げた。」
この時の曲沃の主は武公ではなく荘伯です。
范祥雍の『古本竹書紀年輯校訂補』はこの出来事を曲沃武公元年(桓王五年)のこととしています。
 
 
 
桓王二年
癸亥 前718
 
[一] 春、魯隠公が棠という地に入って魚を観察しようとしました。漁が目的です。
臧僖伯(公子・彄。孝公の子。臧は公子・彄の子孫が名乗った姓で、僖伯は諡号です。公子・彄は臧氏の祖といわれています)が諫めて言いました「大事(祭祀や軍事)に関係ない物や、礼器や兵器として使うことができない物に対しては、国君は行動をとってはならないものです。国君とは民を『軌』『物』に導かなければなりません。大事を行うには法度に則るべきです。これを『軌』といいます。材料を得て重要な器物を作ることを『物』といいます。『軌』と『物』が正しくなければ政治が乱れ、それが頻繁になったら国は滅びます。だから春蒐、夏苗、秋獮、冬狩という四季の狩猟(軍事演習)は農閑の時期に行うのです。また、三年ごとに郊外で兵を治め(大演習を行い)、国都に入って軍を整理し、宗廟に成果を報告してから宴を開くものです。その際は車服を鮮明にし、貴賤を明らかにし、序列を論じ、長幼に従います。こうして威儀が正されます。鳥獣の肉は宗廟の祭器に乗せてはならず、その皮革や歯牙、骨角、毛羽を礼器に載せてはなりません。だから国君はそれらを射ることがないのです。これは古来の制度です。山林川沢の産物は普通の器物に用いられるものであり、皁隸(身分が低い物)が扱うものです。それらを管理するのは官司(官吏)の職責であり、国君が干渉することではありません。」
しかし隠公は「わしは辺境を視察に行くのだ」と言って出発し、棠で魚を陳列させて見学しました。
臧僖伯は病と称して従いませんでした。
 
[二] 曲沃の荘伯が鄭軍と邢軍を率いて晋都・翼を攻撃しました。
桓王は周の大夫・尹氏と武氏を派遣して曲沃を援けさせます。晋鄂侯(翼侯)は隨(晋内の邑)に逃走しました。
 
[三] 夏四月、衛が桓公を埋葬しました。衛の乱が徐々に収まりました。
 
[四] 鄭が衛の郊外に侵攻しました。東門の役(前年)の報復です。
 
衛が燕師を率いて鄭国に反撃しました。
鄭は祭足、原繁、洩駕が三軍を率いて燕軍の前に陣を構え、曼伯と子元を秘かに燕軍の後ろに回らせました。燕軍は前面に布陣する鄭の三軍を恐れて制(地名)方面の警戒を疎かにします。
六月、鄭の二公子(曼伯、子元)が制人を率いて北制(虎牢)で燕軍を破りました。
 
資治通鑑外紀』によると、この燕は「南燕」を指し、姞姓・伯爵の国で黄帝の子孫といわれています。
史記・宋微子世家』はこの後諸侯が頻繁に宋を侵すようになったとしています。

[五] 晋の曲沃が周王室に背きました。
秋、桓王が虢公に命じて曲沃を討伐させ、晋都・翼で鄂侯の子を擁立しました。これを哀侯といいます。
これは『春秋左氏伝』の記述で、鄂侯はまだ随にいます(本年[]参照)。『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』も『春秋左氏伝』の説を採用しています。
 
史記・晋世家』や『竹書紀年』(今本)は異なる記述をしています。
それによると、この年、鄂侯が在位六年で死にました。
曲沃の荘伯は鄂侯の死を知り、兵を興して晋(翼)を攻撃します。
周桓王は虢公に兵を率いて曲沃を討たせました。荘伯は兵を退いて曲沃を守り、晋人は鄂侯の子・光を立てました。これを哀侯といいます。
このように、『史記・晋世家』等は鄂侯が既に死んだため、哀侯が立てられたと書いています。
 
尚、『竹書紀年』(今本)はここにも公子・万が翼を援け、荀叔軫が追撃して家谷に至ったと書いています。桓王元年の記述と重複しています。
 
[六] 前年、郕国が衛を侵しました。
秋、衛師が郕を攻めました。
 
[七] 九月、魯隠公が仲子(恵公夫人)の宮(廟)を祀りました。『万舞』という舞踊が用意されます。
隠公が衆仲に羽を持って舞う人数を聞くと、衆仲はこう答えました「天子は八佾、諸侯は六佾、大夫は四佾、士は二佾と決まっています。舞とは八音(金・石・絲・竹・匏・土・革・木の八種類から作られた楽器の音)に調整された楽器によって八風(東北・東・東南・南・西南・西・西北・北の八方の風)を伝えるものです。だから八以下の数字を使うのです。」
隠公はこれに従い、六羽(六佾)の舞を祭祀で披露させました。
「佾」とは列の意味です。八佾は八人が八列で六十四人、六佾は六人が六列で三十六人、四佾は四人が四列で十六人、二佾は二人が二列で四人という説と、一佾(列)の人数は八人と決まっており、八佾は八人が八列で六十四人、六佾は八人が六列で四十八人、四佾は八人が四列で三十二人、二佾は八人が二列で十六人という説があります。
 
[八] 宋が邾国の田を侵したため、邾が鄭に訴えました「貴国が宋を攻めて怨みを晴らしてくれるのなら、敝邑(邾)が先導します。」
鄭荘公は王師(周王軍)と合流し、邾軍の先導によって宋に攻め入りました。荘公は周の卿士だったため、周王の軍を指揮できたようです。鄭を中心とする連合軍は外城に侵入して東門の役の報復としました。
これを「郛(外城)の役」といいます。
 
宋は魯に危急を告げました。
魯隠公は鄭軍が宋の外城に入ったという情報を得ていたため、援軍を出そうとしました。出発前に宋の使者に聞きました「師(鄭軍)はどこまで来た?」
使者は偽ってこう言いました「まだ国都に至っていません。」
隠公は怒って使者にこう言いました「貴国の主君は寡人(私)と共に社稷の難を救おうとしたのに、使者は『まだ国都に来ていない』と言う。これは寡人が望む答えではない。」
結局、魯は兵を出しませんでした。
 
[九] 魯で螟(害虫)の被害がありました。
 
[十] 冬十二月辛巳(二十九日)、魯の公子・彄(臧僖伯)が死にました。
隠公が言いました「叔父(公子・彄)は寡人に対して怨みをもっていた(本年[]で諫言を聞かなかったとを指します)。寡人は叔父の忠誠を忘れない。」
公子・彄の葬儀は一等を加えられました。
 
[十一] 宋が鄭を攻めて長葛を包囲しました。郛(外城)の役の報復です。包囲は翌年まで続きます。
 
[十二] この年、秦文公四十八年、文公の太子が死にました。竫公(または「静公」)と諡されます。竫公の長子が太子に立てられました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代7 東周桓王(二) 曲沃武公即位 前717~715年