春秋時代7 東周桓王(二) 曲沃武公即位 前717~715年
今回は桓王時代の続きです。
桓王三年
甲子 前717年
[一] 春、鄭人が関係修復のために魯に来ました。
[二] 晋都・翼の九宗五正(官名)・頃父の子・嘉父が隨に行って前年逃走した鄂侯と会いました。晋国内では哀侯が既に即位しており、国都に帰ることができないため、鄂侯は鄂の地に住むことになりました。今までも便宜上「鄂侯」と書いてきましたが、実際はここから鄂侯とよばれるようになります。
[三] 当時、魯と斉は敵対していました。
夏五月辛酉(十二日)、両国が艾で会盟し、関係を修復しました。
[四] 以前、鄭荘公が陳桓公に講和を求めましたが、陳は同意しませんでした。大夫・五父(公子・佗。文公の子)が桓公を諫めて言いました「仁義を大切にして隣国との関係をよくする、これは国の宝です。鄭の要求に同意するべきです。」
桓公は講和を拒否しました。
五月庚申(十一日)、鄭荘公が陳を攻めて大勝しました。
[五] 冬(または秋)、宋が前年から包囲していた鄭の長葛を占領しました。
[七] 鄭荘公が周都・洛邑に入って桓王に朝見しましたが、桓王は礼遇しませんでした。
平王末年に鄭が周の禾を奪ったため、桓王は鄭を嫌っていました。
桓王四年
乙丑 前716年
[一] 春三月、魯の叔姫が紀に嫁ぎました。叔姫は恐らく隠公二年(平王五十年)に紀に嫁いだ恵公の長女・伯姫の妹です。
[二] 滕侯が死にました。滕は西周武王の弟・錯叔繍が封じられた国です。
[三] 夏、魯が中丘に築城しました。
国防のため緊急で必要になった築城ではなく、農事に影響を及ぼしました。
[四] 斉釐侯が弟の年(夷仲年)を魯に送って聘問しました。艾の盟(前年)で結んだ関係を強化させるためです。
[五] 秋、宋と鄭が講和しました。
七月庚申(十七日)、二国が宿の地で会盟しました。
魯隠公が宋のために邾国を攻撃しました。邾は宋と敵対していました。
[六] 以前、戎人が周に朝見し、公卿に財幣を贈りました。朝見する者は周の公卿に財幣を贈り、受け取った公卿は宴を開いてもてなすのが慣わしです。
ところが凡伯は宴を開かず答礼もしませんでした。
凡は周公・旦の子孫の国です。当時、その国君(伯爵)が周で公卿を勤めていたようです。
この年の冬、桓王が凡伯を魯に送って聘問しました。
帰路、戎族が楚丘で凡伯を襲い、捕えて還りました。
[七] 陳と鄭が講和しました。
十二月、陳の五父が盟を結ぶために鄭に入りました。
壬申(初二日)、鄭荘公と盟を結んで誓いを行いました。しかし歃血(犠牲の牛の血を参加者が飲む儀式)の時、五父は意識がそこになく、真剣ではありませんでした。
鄭の大夫・洩伯が言いました「五父は禍から逃れることができないだろう。彼は盟約の利を真面目に考えていない。」
鄭の大夫・良佐が命を結ぶために陳に入りました。
辛巳(十一日)、良佐が陳桓公と盟を結びました。この時、良佐は陳で近々乱が起きることを見抜きました。
[八] この年、晋曲沃の荘伯が死に、子・称が立ちました。これを武公といいます。
[九] 秦では文公が在位五十年で死に、西山に埋葬されました。早世した竫公(桓王二年参照)の子が即位します。これを憲公といいます。『史記・秦本紀』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』等には「寧公」と書かれていますが、「秦公鐘」等の発掘から「憲公」が正しいとされています。
桓王五年
丙寅 前715年
[一] 春、斉侯(釐公)が宋、衛と鄭の講和を準備し、会盟の日程を決めました。宋公(殤公)は財幣を衛に贈り、事前に会見することを求めました。衛侯(宣公)はこれに同意します。
宋殤公と衛宣公が犬丘で会見しました。犬丘は垂ともいいます。
[二] 鄭には「祊」という邑がありました。かつて鄭桓公は西周宣王の弟として周王が泰山で祭祀を行う時に従うことになっていました。祊は祭祀前の斎戒沐浴に使うための邑として与えられました。このような邑を「湯沐邑」といいます。
鄭の湯沐邑「祊」は魯の近くにあり、魯の宿邑である「許」は鄭の近くにあります。
この年、鄭伯(荘公)が魯に祊と許田(許の地)の交換を申し入れました。周王による泰山の祭祀が途絶えていたため、湯沐邑は必要ないと考えたからです。しかし許には周公廟があるため、魯は拒否するかもしれません。そこで鄭荘公は「泰山の祭祀を止めて周公を祀る」と伝えました。
三月、鄭荘公が大夫・宛を魯に派遣して祊を譲りました。
庚寅(二十一日)、魯人が祊に入りました。
周王室から与えられた邑を諸侯が勝手に交換するというのは礼に背くことでした。しかも鄭の邑は祭祀の時に使う重要な邑です。この事件は鄭と周王室の反目を天下に示す出来事となりました。
[三] 夏、虢公・忌父が周の卿士となりました。桓王が鄭を周王室の政治から退けたためです。
[四] 四月甲辰(初六日)、鄭の公子・忽が嬀氏を娶るために陳に入りました。
辛亥(十三日)、公子・忽が嬀氏を連れて帰路に就きました。
甲寅(十六日)、公子・忽が鄭に戻りました。陳鍼子(陳の大夫)が同行しています。まず婚礼の儀式が行われ、その後、祖廟に報告しました。これは当時の礼に外れたことです。
陳鍼子が言いました「これは本当の夫婦とみなされない。祖廟をないがしろにしているのに夫婦と認めたら、祖先を騙すことになり、礼に合わない。このような婚礼を行って、子孫が繁栄するはずがない。」
[五] 夏六月己亥(初二日)、蔡の宣侯が在位三十五年で死にました。宣侯の名は『史記・管蔡世家』では「措父」、『史記・十二諸侯年表』では「楷論」、『春秋左氏伝』では「考父」になっています。また、『春秋左氏伝』は「宣侯」を「宣公」としています。
宣侯の子・封人が即位しました。これを桓公といいます。
[六] 辛亥(十四日)、宿男(宿国の主。男爵)が死にました。
[七] 秋七月、宋殤公、斉釐公、衛宣侯が温で会見しました。
庚午(初三日)、宋殤公、斉釐公、衛宣侯が瓦屋で会盟し、東門の役(桓王元年)から続く対立を解消しました。
[八] 八月、蔡が宣公の葬儀を行い埋葬しました。
[九] 丙戌(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年八月に丙戌の日はありません)、鄭荘公が斉人(恐らく国君・釐公)を伴って周桓王に朝見しました。
[十] 九月辛卯(二十五日)、魯隠公と莒人が浮来(または「包来」)で会盟しました。紀国が魯と莒の関係修復を求めたため、この会盟が開かれました(平王五十年参照)。
[十一] 魯で螟(害虫)の被害がありました。
[十二] 冬、斉釐公が魯に使者を送り、宋・衛・鄭三国の和平を伝えました。
魯隠公は衆仲を斉に送ってこう答えました「貴君は三国の対立を解消させて民を安心させることができました。貴君の恩恵のおかげです。寡君(私)はその命に従うだけです。貴君の明徳に逆らうつもりはありません。」
[十三] 冬十二月、魯の卿・無駭が死にました。
羽父(公子・翬)が無駭のために諡号と族氏(死後に下賜される氏)を求めました。隠公が族氏について衆仲に問うと、衆仲はこう答えました「天子は徳がある者を諸侯に立て、生地を姓として与え、封土を氏として名乗らせるものです。諸侯は字を諡号とし、子孫はそれを族氏にします。先代から官に就いて代々功績がある者は、官名を族氏とします。または自分の邑名を族氏とすることもあります。」
隠公は無駭の字を族氏としました。子孫は展氏を名乗ります。
[十四] この年は晋曲沃の武公元年です。武公は一軍(兵一万二千五百)を擁しています。
芮国が曲沃の京邑に進攻しました。前年、荘伯が死に、武公が即位したばかりだったため、喪中の隙を突いたようです。また、荀人、董伯等も曲沃に叛しました。
これは『竹書紀年』(古本・今本)の記述です。
『春秋左氏伝』には十二年後の魯桓公九年(周桓王十七年)に「虢仲、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯が曲沃を攻撃した」とあります。『竹書紀年』の「荀人」は『春秋左氏伝』の「荀侯」と同じで、荀は姫姓の国です。『竹書紀年』の「董伯」は『春秋左氏伝』の「賈伯」を指すのかもしれません。賈も姫姓の国です。
『古本竹書紀年』によると、翼侯(晋哀侯)も曲沃を攻撃しました。喪中の曲沃は大敗し、武公は翼侯に講和を求めます。
武公は桐(または「桐庭」)に至って還りました。桐で講和の会見が行われたのだと思います。
尚、既に触れましたが『今本竹書紀年』はこの出来事を桓王元年に書いています。
次回に続きます。