春秋時代8 東周桓王(三) 鄭の宋討伐 前714~713年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王六年
丁卯 前714
 
[] 春、桓王が大夫・南季を魯に送って聘問しました。
 
[] 三月癸酉(初十日)、大雨が降り、雷が落ちました。雨は三日以上続きました。三日以上続く雨を「霖」といいます。
庚辰(十七日)、大雪が降りました。雪が一尺以上積もったら「大雪」といいます。
 
[] 魯の大夫・挾(または「侠」)が死にました。
 
[] 夏、魯が郎に城を築きました。農時を無視した工事でした。
 
[] 宋殤公が周に朝見しませんでした。
鄭荘公は桓王の左卿士だったため、王命を奉じて宋を討伐します。
実際は、鄭は周王室から疎まれていたので、桓王が鄭に宋討伐を要求したのではなく、鄭が卿士の立場を利用し、王命を大義名分にして宋を攻撃したと思われます。
 
宋は魯に対して「郛之役(桓王二年。魯が宋に援軍を出しませんでした)」の怨みがあったため、魯に鄭国出兵の報告をしませんでした。隠公は怒って宋国の使者の往来を拒絶しました。
 
秋、鄭が王命を奉じて宋を討伐することを魯に伝えました。
 
冬、魯隠公が斉釐公と防で会見しました。宋討伐に関する会議が目的です。
 
[] 十一月、北戎が鄭を侵したため、鄭荘公が兵を率いて対抗します。
荘公が戎師(戎軍)を憂いて言いました「敵は歩兵が主力で我々は車(戦車)が主力だ。突然後方から奇襲されるのではないかと心配だ。」
恐らく地形が複雑で戦車の移動に不利だったため、荘公は歩兵の奇襲を恐れたのだと思います。
公子・突が言いました「我が軍で勇敢ですが剛毅ではない者を前に出し、敵にぶつかったらすぐに退かせてください。三カ所に伏兵を置いて待ち構えましょう。戎は軽率で整うことなく、貪婪で団結できず、勝てば互いに譲らず、負けても互いに助け合わないので、先頭の者が獲物を見つけたら猛進し、進軍中に伏兵に遭ったら奔走します。後ろの者もそれを助けようとしません。敵の先陣を壊滅させれば、後方が続くことなく、我が軍が必ず勝ちます。」
荘公はこれに従いました。
 
甲寅(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の十一月に甲寅の日はありません)、戎軍の先鋒が鄭軍を攻撃しましたが、鄭の大夫・祝聃が伏兵を率いて戎軍の中腹を急襲し、戎軍の先鋒は壊滅しました。後続の部隊も潰走します。
鄭軍が戎師に大勝しました。
 
[] この年、秦憲公(または「寧公」)汧水と渭水の間から平陽に遷りました。
その後、兵を派遣して蕩社(または「蕩杜」「湯杜」)を討ちました。蕩社は西戎の邑で、その君を亳王といいました。
 
 
 
桓王七年
戊辰 713
 
[] 春正月(または「二月」)、魯隠公が斉釐公、鄭荘公と中丘で会見しました。
癸丑(二月二十五日)、三国は鄧で会盟し、宋討伐の日程を決めました。
 
夏五月、魯の公子・翬(羽父)が先行して師を率い、斉・鄭の軍と合流して宋を討伐しました。
 
六月戊申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の六月に戊申の日はありません。戊午だとしたら初三日になります)、魯隠公が斉釐公・鄭荘公と老桃で会見しました。
壬戌(初七日)、魯隠公が宋師を菅で破ります。
庚午(十五日)、鄭師が郜を占領しました。辛未(十六日)、鄭が魯に郜を譲りました。
庚辰(二十五日)、鄭師が防に入りました。辛巳(二十六日)、鄭が魯に防を譲りました。
 
鄭荘公は天子(周王)を奉じて宋を討伐し、奪った土地を自分のものにしなかったため、人々から称賛されました。
 
蔡、衛、郕は王命を無視し、宋討伐に参加しませんでした。
 
[] 秋七月庚寅(初五日)、鄭が郜・防から軍を還し、鄭国の郊外に駐留しました。その間に宋・衛の連合軍が鄭を攻撃しました。蔡も二国に従って戴(または「載」)の地を攻めます。戴は姫姓の国で、鄭の属国(または同盟国)のようです。戴は陥落し、宋・衛・蔡が駐軍しました。
 
八月壬戌(初八日)、鄭荘公が戴を包囲しました。
癸亥(初九日)、鄭軍が戴を落として三師(宋・衛・蔡の兵)を捕虜にしました。
元々宋と衛は鄭国内に進攻しており、戴を攻めるために蔡軍を呼びました。しかしせっかく占領した戴が二日で攻略されたため、蔡は怒って協力しなくなりました。
 
[] 九月戊寅(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の九月に戊寅の日はありません)、鄭荘公が宋に進攻しました。
 
[] 冬十月壬午(二十九日)、斉と鄭が郕国を攻めました。王命に従わなかったからです。
 
[]  秦憲公が西戎の亳王と戦いました。前年の続きです。
亳王は敗れて戎の地に逃げ、秦が蕩社を占領しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代9 東周桓王(四) 魯隠公の死 前712年