春秋時代9 東周桓王(四) 魯隠公の死 前712年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王八年
己巳 712
 
[] 春、滕侯と薛侯が魯に来朝することになりました。「来朝」とは通常、周王朝を朝覲することですが、この時代は小国が大国の主に謁見する時にも「来朝」といいました。
滕侯と薛侯は魯で謁見する順序を争います。薛侯が言いました「私が先に封侯を受けた。」
薛は夏王朝時代に祖先の奚仲が車正に任命され、薛に封じられました。
滕侯が言いました「私は周の卜正(卜官の長)だ。薛は庶姓(周とは異姓)だ。私が薛の後になるわけにはいかない。」
 
魯隠公は公子・翬(羽父)を送って薛侯に伝えました「君と滕君が寡人(私。魯隠公)に序列を聞いてきたが、周にはこのような諺がある。『山に木があれば工匠が整え、賓客に礼があれば主はそれをもてなす(山有木,工則度之。賓有礼,主則択之)。』周の会盟では異姓が後ろになる。寡人が薛に朝見した時は、任姓諸侯と序列を争うとは思わない。もし君が寡人に恩恵を与えようと思うなら、滕君の請いに同意してほしい。」
薛は任姓の国です。任姓の国は謝・章・薛・舒・呂・祝・終・泉・畢・過の十国がありました。
薛侯は同意し、滕侯を先としました。
 
[] 夏、魯隠公と鄭荘公が郲という場所で会見しました。郲は「時来」「祁黎」ともいいます。鄭は許の攻撃を準備しており、魯とその相談をしました。
許国は姜姓です。斉と同祖で、帝堯・帝舜に仕えた四嶽・伯夷の子孫の国といわれています。西周武王が文叔を許に封じて大岳(四嶽)を祀らせたことから始まりました。『資治通鑑外紀』によると、文叔の後は徳男、伯封、孝男、靖男、康男、武公、文公・興父、荘公・茀と継承されました。この時の許の国君は荘公です。
 
五月甲辰(二十四日)、鄭の大宮(祖廟。鄭桓公の父・周厲王の廟)で武器が配られました。大夫・公孫閼(子都)と潁考叔が車を争い、潁考叔が輈(車轅)を奪って先に走り出します。公孫閼は戟を持って追いかけ、大路に至りましたが追いつけませんでした。公孫閼は潁考叔を怨みました。
 
秋七月、魯隠公・斉釐公・鄭荘公が共に許を攻めました。
庚辰(初一日)、許に対する攻城が始まります。潁考叔が鄭伯の旗「蝥弧」を持って城壁を登りました。すると公孫閼が城下から矢を射ます。矢は潁考叔に中り、潁考叔は転落して死にました。
鄭の大夫・瑕叔盈が「蝥弧」を持ち直して城壁を登り、旗を振って叫びました「国君が城壁に登った!」
鄭兵の士気が上がり、全軍が城壁に登りました。
壬午(初三日)、鄭荘公と斉釐公、魯隠公が許に入り、許荘公は衛に奔りました。
 
三国が許領の統治について話しました。斉釐公は占領した許を魯隠公に譲ろうとしましたが、隠公はこう言いました「貴君が許は法に従わないというから、貴君に従って討伐に参加しました。許は既に罪に伏しました。貴君の命といえども、寡人(私)が受け入れるわけにはいきません。」
許の地は鄭が統治することになりました。
 
鄭荘公は許の大夫・百里に許叔を助けさせ、許叔を許の東境に住ませることにしました。許叔は許荘公の弟で、桓公・鄭を指すようです。穆公・新臣(荘公の別の弟)という説もあります。
荘公が百里に言いました「天が許国に禍を降らせた。確かに鬼神が許君に不満だったので、寡人(私)の力を借りて罰を与えた。しかし寡人は一人二人の父兄も安寧にすることができない。許の討伐を自分の功績にすることができるか。寡人には弟がいるが、和協することはできず、四方で食を求めさせている(弟というのは平王四十九年に叛した共叔・段です。まだ生きているようです)。久しく許を治めることができるか。汝は許叔を奉じてその民を慰撫せよ。寡人は獲(鄭の大夫・公孫獲)に汝を助けさせる。寡人が死んだら、天は許に対する禍を撤回し、許公にその社稷を復させるだろう。その時、我が鄭国に対して要求があるようなら、鄭国は親戚の国のように協力するだろう。他族(別の国)をここに住ませて我が鄭国とこの地を争わせるようなことにはしない。将来、我が子孫は滅亡の危機から逃れることすら難しいであろう。我々に許の祭祀を継ぐことができるだろうか(許国を滅ぼすことはできない)。寡人が汝をここに住ませるのは、許国のためだけでなく、我が国境を固めるためでもある。」
荘公は公孫獲を許の西境に駐留させ、こう言いました「汝の器物財貨を許に置いてはならない。わしが死んだらすぐにここを去れ。我々の先君はこの近くに邑(新鄭)を作ったが、王室は既に衰退が激しく、我々周の子孫は日々祖先の功業を失っている。許は大岳の後裔である。天が周の徳を棄てたのだから、我々が賢人の子孫である許と争うことはできない。」
 
鄭荘公が卒(百人)に命じて豭(豚)を、行(二十五人)に命じて犬や鶏を献上させました。当時は豚、犬、鶏の三物がそろったら呪術ができると考えられていたため、荘公は三種類の犠牲を集めて潁考叔を射殺した者を呪わせようとしました。ただし荘公は潁考叔を殺したのが公孫閼(子都)だと知っています。子都は美貌で知られており、荘公に寵愛されていたため、荘公自ら手を下すことができませんでした。そこで潁考叔殺害の犯人を知らないふりをして、兵達の呪術で子都を処理することにしたようです。
 
[] 桓王が鄭の鄔、劉、、邗の田(地)を取り、代わりに蘇忿生の田である温、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懐を与えました。蘇忿生は西周武王時代に司寇を勤めて温等の地を与えられました。
 
[] 鄭と息が違言(言辞上での行き違い)によって争い、息侯が鄭を攻めました。息は姫姓の国です。
両国は鄭国内で戦い、息師が大敗して退き上げました。
 
[] 冬十月、鄭荘公が虢師を率いて宋を攻撃しました。前年、宋が鄭に進攻した報復です。
壬戌(十四日)、宋師が大敗しました。
 
[] 魯の公子・翬(または「揮」。羽父)が隠公に言いました「民はあなたが国君であれば民にとって利があると思っています。摂政ではなく正式に国君の地位に即くべきです。私が允を殺すので、即位したら相(または太宰)に立ててください。」
允は恵公の太子です。隠公の摂政も十年を超えたので、允もそろそろ親政ができる歳になりました。
しかし隠公はこう言いました「先君の命がある。元々彼が幼かったから私は今の位を引き受けた。私は彼に国君の地位を譲り、菟裘(地名)に家を建てて隠居するつもりだ。」
公子・翬は太子暗殺の陰謀が漏れることを恐れました。太子・允が即位したら誅殺されるかもしれません。そこで逆に太子・允に言いました「公(隠公)は正式に国君の位に即き、あなたを除くつもりです。あなたはこのことを真剣に考えるべきです。あなたのために公を殺すことをお許しください。」
太子・允は同意しました。
 
公が公子(息姑)だった頃、鄭と狐壤で戦い捕虜になったことがありました。鄭は息姑を尹氏(鄭の大夫)に監視させます。息姑は尹氏に賄賂を贈り、尹氏が祭主としていた鍾巫(神)を祭ることを約束しました。息姑は放たれ、尹氏と共に魯に帰ります。息姑は魯で鐘巫を祭り、執政するようになってからもそれを続けました。
この年十一月、隠公が鍾巫を祭るため、社圃(園)で斎戒して大夫・氏の屋敷に住みました。
壬辰(十五日)公子・翬が人を送って氏の屋敷で隠公を暗殺しました。隠公の治世は十一年になります。
こうして太子・允が即位します。これを桓公といいます。
桓公氏の屋敷を襲い、無辜の者を殺しました



次回に続きます。

春秋時代10 東周桓王(五) 宋の内争 前711~708年