春秋時代10 東周桓王(五) 宋の内争 前711~708年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王九年
庚午 前711
 
[] 春正月、魯桓公が即位しました。
 
[] 三月、魯桓公が鄭との関係強化を図りました。
桓公は鄭荘伯と垂で会見します。鄭荘公は周公の祭祀を行うことで祊田と許田を交換する話を再び持ち出しました(桓王五年参照)
桓公はこれに同意しました。
 
鄭荘公は玉璧を加えて許田と交換することにしました。祊田だけでは許田と交換するに釣り合いが取れなかったようです。
 
夏四月丁未(初二日)、魯桓公と鄭荘公が越で会盟しました。祊と許の交換のためです。盟文に「盟を破る者は国を享受できない」と書かれました。
 
[] 秋、魯で洪水がありました。
 
[] 冬、鄭荘公が結盟のため魯に来ました。
 
[] この年、燕穆侯(繆侯)が在位十八年で死に、子の宣侯が立ちました。
 
 
 
桓王十年
辛未 前710
 
[] 以前、宋の華父督(戴公の孫。華父は字。督が名)が路上で孔父嘉の妻を見つけ、目で追って「美しく艶やかだ」と言いました。
 
春正月戊申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年正月に戊申の日はありません)、華父督が孔氏を攻め、孔父嘉を殺してその妻を奪いました。
宋殤公が怒ったため、華父督は恐れて殤公も殺してしまいました。
 
[] 滕子(滕侯)が魯に来朝しました。
 
[] 三月、魯桓公と斉釐公、陳桓公、鄭荘公が宋の稷という場所で会見しました。宋の乱を治めるためです。
諸侯は華父督から賄賂を受け取っていたため、華氏の政権を認めました。
 
宋の殤公は在位十年で十一戦し、民が堪えられなくなりました。
孔父嘉が司馬を、華父督が大宰(太宰)を勤めていましたが、民が困窮しているのを見て華父督が先に宣言しました「司馬が政治を行っているためにこのようなことになった。」
孔父嘉と殤公を殺した華父督は鄭に居る公子・馮(穆公の子)を迎え入れて即位させました。これを荘公といいます。
これがきっかけで宋と鄭の関係が深くなりました。
また、宋は郜の大鼎を魯桓公に贈り、斉、陳、鄭にも賄賂を贈りました。華父督は宋荘公の相になりました。
 
夏四月、魯が宋から贈られた郜の大鼎を受け取りました。
戊申(初九日)、魯が大鼎を大廟に奉納しました。
魯の大夫・臧哀伯(名は達。臧僖伯の子)桓公を諫めて言いました「人の君となる者は、昭徳塞違(徳を顕揚して誤りを塞ぐこと)を忘れずに百官を監督しても、まだ足りないことを恐れるものです。だからこそ徳を子孫に示すことができるのです。また、清廟(太廟)は茅屋を用い、大路は蓆で席を作り、大羹(肉の羹)は味を調整させず、主食には精米を使わないことで、倹約を明らかにするものです。袞、冕、黻、珽、帯、裳、幅、舄、衡、紞、紘、綖(礼服、冠、帯等の種類)は身分の上下によって異なることで制度を明らかにします。藻、率、鞞、,鞶、厲、游、纓(装飾の道具)は階級によって変えることで数の制度を明らかにします。火、龍、黼、黻(衣服の模様)は文飾を明らかにします。五色(青・黄・赤・白・黒)による像は物を明らかにします。錫、鸞、和、鈴(馬・車・旗につける鈴)は音を明らかにします。三辰(日・月・星)の旗は明亮を表します。徳とは倹(節倹)にして度(制度・きまり)があり、事象の増減には一定の数の基準があります。それらは文と物によって記され、声(音)と明によって発揚されます。これらを用いることで百官に対して徳の倹や度を明確にできるのです。そこで百官は慎重になり、自分を戒め、紀律を守るようになります。しかし今は徳を滅ぼして違(誤り)を立て、賄賂の器物を大廟に奉納して百官に示しました。百官はこれにならうようになるでしょう。国家の敗亡は官の歪みから始まります。官が徳を失うのは、寵愛を受けて賄賂が横行するところから始まります。郜鼎が太廟に置かれましたが、これ以上に賄賂が明らかになることがあるでしょうか。武王は商に勝って九鼎を雒邑に遷しましたが、この時でも義士(伯夷・叔斉等)が批難しました。今回のように悪によって乱を興した者の賄賂を大廟に置いたらどうなるでしょう。」
桓公は諫言を聞きませんでした。
これを聞いた周の内史が言いました「臧孫達の子孫は魯で長く栄えるだろう。君が誤った時、徳によって諫めることを忘れなかった。」
 
[] 杞侯が魯に来朝しました。しかし杞侯が不敬だったため、杞侯の帰国後、桓公は杞国討伐を謀りました。
 
[] 蔡侯と鄭伯が鄧の地で会いました。南方の楚が強盛になったため、蔡と鄭は対策を考え始めたようです。
 
[] 九月、魯が杞を攻めました。
 
[] 魯桓公と戎が唐で会盟しました。隠公時代の友好関係を強化するためです。
冬、桓公が唐から帰国して宗廟に報告しました。
 
諸侯が国外に出たら帰国後、宗廟に報告し、臣下と宴を開いて成果を簡策に書き残すことが礼とされていました。
 
[] 晋の哀侯が陘庭の地を侵しました。陘庭は曲沃に属するようです。陘庭南部の人々は曲沃の武公を導いて翼に反撃しました。この戦いは翌年に続きます。
 
 
 
桓王十一年
壬申 前709
 
[] 春、晋曲沃の武公が翼を攻め、陘庭に駐軍しました。韓万が武公の戎車(戦車)を御し、梁弘が車右を担当します。武公は翼侯(晋哀侯)を追撃して汾隰(汾水附近の湿地)に至りましたが、驂馬(馬車を牽く四頭の馬のうち左右の二頭が驂。間の二頭は服といいました)が樹木にぶつかって進めなくなりました。
しかしその夜、武公が晋営を急襲し、哀侯と欒共叔(哀侯の大夫。曲沃桓叔を補佐した欒賓の子。名は成)が捕えられました。
 
欒共叔は最後まで曲沃・武公に抵抗しました。『国語・晋語一』からです。
武公が欒共叔にこう言いました「もしも殉死せずわしに仕えるなら、汝を天子に会わせて上卿とし、晋国の政治を任せよう。」
欒共叔は拒否して言いました「民は三者のおかげで生きることができ、生涯それに仕えるものだといいます(民生於三,事之如一)。父は私を産み、師は私に教え、君は私に俸禄を与えてきました。父がいなければ産まれず、俸禄がなければ生きていけず、教えがなければ自分の氏族を知ることもできません。だからこの三者には生涯仕え、死をもって報い、臣下として尽力するのです。これは人の道です。臣(私)が自分の利のために人の道を廃したら、あなたはどうやって君臣の道を説くつもりですか。あなたは私を活かすことしか知らず、二心をもつ私が曲沃に仕えるようになった時のことに考えが及んでいません。あなたに対して二心を持つ者を用いて、何の役に立つのですか。」
欒共叔は抵抗して殺されました。

晋は哀侯の子・小子を立てました。これを小子侯といいます。
 
史記・十二諸侯年表』はこの年を小子侯元年としています。
『晋世家』は小子侯元年に武公が韓万を使って捕虜にした哀侯を殺したとしています。
しかし『資治通鑑外紀』と『資治通鑑前編』は哀侯殺害を翌年の事としています。
史記・晋世家』によると、当時、曲沃がますます強大になり、晋公室は為す術がありませんでした。

曲沃武公の戎車を御した韓万について紹介します。
『春秋左氏伝(僖公二十四年)』に「邗、、韓王の(子)」という記述があります。韓は西周初期に建てられた国でした。西周宣王の時代、韓は北方を守る重要な国になります。『資治通鑑外紀』は韓が侯伯(諸侯の長)になったとしています。
しかし東周平王十四年757年)に晋が韓を滅ぼしました。韓は晋領に属すことになります。
後に晋は曲沃桓叔(成師)庶子・万(武公の叔父)を韓に封じました。万は韓を氏としたので韓万といいます。
韓万が曲沃桓叔の子というのは『春秋左氏伝』『国語』『世本』等に見られ、『資治通鑑外紀』もこの説を採っています。但し、『史記・韓世家』は韓万を故韓国(武王の子が封じられた国)の後裔としており、晋に仕えたため韓原に封じられたと書いています。
いずれにしても大元は周王室に繋がるので、韓は姫姓の国になります。
 
韓万は韓武子といい、賕伯(または「求伯」)を産みました。
求伯は定伯・簡を産み、定伯は輿(子輿)を産みました。
韓輿の子・韓厥(献子)は後に晋で大きな働きをします。
尚、資治通鑑外紀』は韓輿を「武子」としていますが、恐らく誤りです。

[] 正月、魯桓公が嬴で斉釐公と会見しました。桓公の婚姻のためです。
 
[] 夏、斉釐公、衛宣公が衛地の蒲で会いました。
 
[] 六月、魯桓公が郕という場所で杞侯と会見しました。杞国が魯に講和を求めたためです(魯は前年、杞を攻めて敵対していました)
 
[] 秋七月壬辰朔、全日食がありました。
 
[] 魯の公子・翬(または「揮」)が斉女・姜氏(文姜)を迎えるため斉に入りました。
九月、斉侯(釐公)が姜氏を魯の地・讙まで送ることにしました。公室の女性が他国に嫁ぐ時、国君自ら送り出すのは非礼とされていました。
斉釐公と姜氏が魯に入り、讙で魯桓公と会見しました。
冬、斉釐公が弟・年夷仲年)を魯に送って聘問しました。姜氏と一緒に魯に入ったのかもしれません。
 
[] 芮伯・万の母・芮姜は、芮伯の寵姫が多いことを嫌い、芮伯を放逐しました。芮伯・万は出奔して魏に住みました。
芮も魏も姫姓の国です。
魏は舜・禹が都にした地ともいわれ、南は河曲、北は汾水に接します。日々隣国の秦・晋から攻撃を受け領土が削られました。東周平王・桓王の時代から魏で変風(『詩経・魏風』に収録されている詩)が作られるようになりました。後に晋献公によって滅ぼされます(東周恵王十六年。前661年)
 
[] この年は豊作でした。『春秋』に「有年」と書かれています。
 
 
 
桓王十二年
癸酉 前708
 
[] 春正月、魯桓公が郎で狩りをしました。
 
[] 夏、桓王が宰官・渠伯糾を魯に送って聘問しました。
 
[] 秋、秦師が芮国を攻めましたが、油断していたため敗戦しました。
 
[] 冬、王師と秦師が共に魏城を包囲し、芮伯・万を捕えて兵を退きました。
これは『春秋左氏伝桓公四年)』『今本竹書紀年』の記述です。
『古本竹書紀年』は「周師と虢師が魏を包囲した」としています。秦ではなく虢が参戦したと書かれています。芮伯は魏の東方に位置する周都・洛邑に連れて行かれたようです。

[] 『資治通鑑外紀』と『資治通鑑前編』によると、この年、晋曲沃の武公が晋哀侯を殺しました(前年参照)
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代11 東周桓王(六) 繻葛の戦い 前707年