春秋時代12 東周桓王(七) 随の季梁 前706年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王十四年
乙亥 前706
 
[] 春正月、州公(州国の淳于公)が曹から魯に来ました。
 
[] 楚武王が隨国に兵を進めました。随は姫姓の国です。武王はまず(または「蔿章」)を派遣して講和を求めました。武王は瑕に駐軍して随の答えを待ちます。隨は少師(官名。姓名は不明)を送って和を結ぶことにしました。
 
楚の伯比が武王に言いました「我が国が漢東漢水の東)に志を得ることができないのは、我々が自ら招いたことです。我々が三軍を拡大し、武器を整えて武力で彼等に臨んでいるので、彼等は恐れて協力しています。漢東の国では隨が最も大きく、隨が拡大して驕れば必ず小国を棄てるようになります。小国が離れるのは楚の利です。今回使者として来た少師は驕慢な男です。羸師(老弱の兵)を見せて彼等をますます増長させましょう。」
大夫・熊率且比が言いました「随には季梁(随の賢人)がいる。何の意味があるのだ。」
伯比が言いました「これは後のことを考えてのことだ。少師はいずれ随君の信任を得るはずだ。」

武王は精鋭を隠して羸師を配置してから少師を迎え入れました。

少師が随に帰ってから、随君に楚軍攻撃を進言しました。
しかし季梁が言いました「天は楚に命を与えたばかりです。楚の蠃師は我々を誘う罠です。主君が急ぐ必要はありません。小国が大国に対抗できるのは、小国に道があり、大国が乱れている時です。道とは民に忠であり、神に信であることです。上の者が民の利を思うことを忠といいます。祝史(祭官)が偽らずに祭祀を行うことを信といいます。今、民は飢えているのに主君は欲に限りがありません。祝史は虚偽の功徳を祭祀で報告しています。これで成功するはずがありません。」
随侯が言いました「わしは祭祀の時に雑色がなく肥えた牛を犠牲とし、供える穀物も豊富にしている。なぜ神に対して不信と言うのだ。」
季梁が言いました「民こそが神の主です。だから聖王は先に民を治めてから神のことに力をかけるのです。祭祀で犠牲を捧げる時に『犠牲が肥えて美しい(博碩肥腯)』と報告するのは、民力(民の財力)が充分足りており、家畜が肥えて繁殖し、健康だからです。穀物を捧げる時に『清い穀物が豊盛です(潔粢豊盛)』と報告するのは、三時(春・夏・秋。農時)に災害がなく、民が和して豊作だからです。酒を捧げる時に『美味く清い酒です(嘉栗旨酒)』と報告するのは、上下関わらず嘉徳があり、違心(邪心)を持っていないからです。祭品が香るのは、曲がった心がないからです。三時には農業に励み、五教(父義・母慈・兄友・弟恭・子孝)を修め、九族が親しんでから祭祀をするから、民が和して神が福を降し、行動すれば成功できるのです。今、民の心は一つではなく、鬼神には主がいません(団結した国民がいません)。主君が祭祀の供物だけを豊かにしても神が福を降すことはありません。今は政事を修め、兄弟の国漢水東の姫姓の国)と親しくするべきです。そうすれば禍難を避けることができるでしょう。」
隨侯は恐れて政治を正すことにしました。楚は随侵攻をあきらめました。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。
史記・楚世家』は異なる話を紹介しています。
楚武王が随国を討伐することにしました。すると随の国君が言いました「罪のない我々をなぜ攻撃するのですか。」
武王が言いました「わしは蛮夷の地にいる。今、諸侯は皆、王室に背いて互いに侵伐しているではないか。わしには軍隊がある。これを使って中国(中原)の政治に参加するつもりだ。わしに尊号(王号)を与えるよう、王室に要求せよ。」
随は周王室と同じ姫姓の国なので、武王はこの要求をしたようです。尚、便宜上、「武王」と書いてきましたが、この時はまだ王を名乗っていません。
随は周王室に使者を送って楚に尊号を与えるよう請いましたが、周王室は拒否しました。
随はこれを楚に報告しました。
武王は怒って二年後(桓王十六年。前704年)に自ら王を称します。
 
[] 夏四月、魯桓公が紀侯と成(郕)で会いました。斉が杞攻撃を考えていたため(前年参照)、杞侯が魯に相談したようです。
 
[] 北戎が斉を攻撃しました。斉釐公は鄭に使者を送って援軍を求めます。
鄭の太子・忽が軍を率いて斉を援けました。
 
六月、鄭軍が戎師に大勝し、戎の二帥・大良と少良を捕え、三百人を斬りました。戦利品は斉に贈られます。
この時、諸侯の大夫が斉を守っていました。斉は食糧を提供し、魯に配給の序列を決めさせました。魯は鄭を後ろに置きます。鄭の太子・忽は功績を自負していたためこれに不満でした。
 
桓公が斉の文姜を娶る前、斉釐公は文姜を鄭太子・忽に嫁がせようとしました。鄭の祭仲が太子・忽に言いました「受け入れるべきです。国君(荘公)は寵姫が多いので、太子に大きな外援がなければ将来立つことができないでしょう。他の三公子子突、子亹、子儀が国君になってしまいます。」
太子・忽は従いませんでした。
ある人が理由を聞くと、太子・忽はこう言いました「人には自分にふさわしい相手がいるものだ。斉は大国なので、私にはふさわしくない。『詩経』にはこうある『自ら多福を求める(自求多福)(大雅・文王)。福は私次第だ。大国に頼ることはない。」
太子・忽が戎師を破った時、斉釐公が再び婚姻を要求しましたが、やはり拒否しました。
ある人がその理由を聞くと、太子・忽はこう言いました「私は斉に対して何もしていない。今回は国君の命によって斉に赴きその危急を救っただけだ。もし妻を娶って帰ったら、戦争を利用したと思われる。民が私を非難するだろう。」
太子・忽は鄭伯の名義で婚姻を辞退しました。
 
[] 秋八月壬午(初八日)、魯桓公が大閲兵を行いました。兵車や馬の確認のためです。
 
[] 蔡人が陳佗を殺しました。陳佗は前年、陳で桓公の太子・免を殺して即位した公子・佗(五父)です。諡号がないため「陳佗」と書かれます。
太子・免の弟・躍は母が蔡人でした。蔡が陳佗を殺したのはそのためです。躍が国君になりました。これを厲公といいます。
 
以上は『春秋左氏伝桓公六年)』の記述です。『史記・陳杞世家』は大きく異なります。以下、『史記』からです。
桓公三十八年(前年)桓公が死にました
桓公蔡女だったため、蔡人に協力して五父桓公太子を殺しました。が即位します。これを厲公といいます。
『田敬仲完世家』の記述は『陳杞世家』とも少し異なります。
厲公陳文公少子で、蔡女でした。文公死後、厲公の異母が即位します。これが桓公です
しかし桓公になった時、蔡人のために桓公とその太子を殺しました。こうして即位した厲公とよばれます。
 
史記』は公子・佗と五父を別人としており、公子・佗を厲公としています。また、陳佗の母が蔡女となっています。『史記』の注(索隠)は『春秋左氏伝』が正しく、『史記』は誤りとしています。
 
[] 九月丁卯(二十四日)、魯桓公に太子が産まれました。
桓公は太子出生の儀礼を行い、大牢(祭祀で用いる牛・羊・豚三種類の犠牲)を用いて太子を迎え、卜によって士を選んで背負わせ、卜で選んだ士の妻に授乳させました。
桓公と夫人・文姜、宗婦(宗族の夫人)命名します。桓公が大夫・申繻に命名について問い、申繻が答えました「名には五種類あります。信・義・象・假・類です。出生に関係する命名を『信』といいます。徳(瑞祥)によって命名することを『義』といいます。似ている物によって命名することを『象』といいます。万物の名から命名することを『假(借)』といいます。父に関係する命名を『類』といいます。また、国・官・山川・隱疾(病名)・畜牲・器幣(器物・礼品)は名に用いないものです。周人は避諱(名を使うことを避けること)によって神に仕えています。名はその人が死んだら避諱されなければなりません。だから国名を人の名にしたら、死後、国名を廃すことはできないので、人名を廃すことになります。官名を人の名にしたら、その職を廃すことになります。山川を人の名にしたら、山川の名を変えることになり、その主(山川の神)を廃すことになります。畜牲(牛・羊・豚等)を人の名にしたら、犠牲を使えなくなるので祭祀を廃すことになります。器幣を人の名にしたら、それらが使えなくなるので儀礼を廃すことになります。晋は僖侯(釐侯)のために司徒を廃し(晋釐侯の名は司徒だったため、司徒の官名を中軍に改めました)、宋は武公のために司空を廃し(宋武公の名は司空だったため、司空を司城に改めました)、我が国も先君・献公と武公のために二山の名を廃しました(献公の名は具、武公の名は敖だったため、具山と敖山の名が廃されました)。このように、大きな事物で命名してはならないのです。」
桓公が言いました「この子はわしと同じ日に産まれた。よって、『同』と名付けよう。」
 
[] 冬、紀侯が魯に来朝しました。紀侯は魯を通して王命によって斉に和を請うことを希望しましたが、桓公は「できない」と答えました。
 
[] 中国の解放軍出版社が編纂した『中国歴代戦争年表』はこの年に「曲沃が姫姓の小国・荀(山西新絳西)を攻め滅ぼした。荀伯・万は戎に奔った」と書いています。
しかし曲沃が荀を滅ぼすという出来事は昨年紹介しました(『今本竹書紀年』)
また、『中国歴代戦争年表』の「荀伯・万は戎に奔った(荀伯万逃奔戎)」という記述の出典がわかりません。
 
[] この年、晋に関する複数の記述があります。
『今本竹書紀年』「桓王が虢仲に命じて曲沃を攻撃させ、晋哀侯の弟・緡を翼で立てて晋侯とした。」
史記・十二諸侯年表』「晋小子侯四年。曲沃武公が小子侯を殺したため、周が曲沃を攻めて晋哀侯の弟・湣(緡)を立てた。」
史記・晋世家』「小子侯四年、曲沃武公が小子侯を誘い出して殺した。周桓王が虢仲に曲沃武公を討伐させ、武公は曲沃に入った。そこで晋哀侯の弟・緡を晋侯に立てた。」
 
このうち、『今本竹書紀年』は昨年、小子侯が殺されて、本年、晋侯・緡が即位したとしています。
史記』では小子侯が殺されたのも晋侯・緡が即位したのも本年のこととなっています。
 
『春秋左氏伝』の記述は異なり、翌年の魯桓公七年(桓王十五年)に小子侯が殺され、その翌年の魯桓公八年(桓王十六年)に晋侯・緡が即位したとしています。
『春秋(および『左氏伝』)』は魯国の史書なので、晋・魏の史書『竹書紀年』の方が正確かもしれません。但し、『今本竹書紀年』は春秋戦国時代ではなく後世に編纂された偽書ともいわれているので、明確なことはわかりません。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代13 東周桓王(八) 速杞の戦い 前705~703年