春秋時代13 東周桓王(八) 速杞の戦い 前705~703年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王十五年
丙子 前705
 
[] 春二月己亥(二十八日)、魯が咸丘を焼きました「焚咸丘」。野に火を放って獣を追い出し、狩猟を行ったようです。
もしくはこの咸丘は邾の地で、魯が火攻めにしたという説もあります。
 
[] 夏(または「春」)、穀伯・綏が魯に来朝しました。穀は嬴姓の国のようです。
鄧侯・吾離も魯に来朝しました。鄧は曼姓の国です。
 
[] 夏、盟邑と向邑が鄭に和を求めましたが、暫くして叛しました。温と向は桓王八年に周が鄭に与えた邑ですが、鄭の支配下になることを嫌って対抗していました。
 
秋、鄭・斉・衛が盟邑と向邑を討伐しました。
桓王は盟邑と向邑の民を郟(王城・洛邑に遷し、その土地を鄭に与えました。
 
[四] 『春秋左氏伝』はこの年の冬、「晋曲沃の武公が晋の小子・侯を誘い出して殺した」と書いています。
史記』『今本竹書紀年』と年が異なることは桓王十四年に書きました。
資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』は『春秋左氏伝』の説を採っています。

[] 『史記・陳杞世家』によると、この年、陳厲公にが産まれました。敬仲とよばれます
太史を通ったため、陳厲公が『周易』によって占をさせました。『観』が『』に変わるという卦がでます。
太史が言いましたこれは『観国之光利用于王』という象です(『史記』の注釈や『春秋左伝注』に占の解説がありますが省略します)彼の後代はに代わって国を擁することができるでしょう。しかしそれはここではなく、国においてのはずです。また、このにおいてではなく、子孫においてのことですもし国においてなら、姜姓の国です。姜姓太嶽の子孫です。物事は両方面に向かって大きくなることはできません。が衰退してから彼の子孫が興隆するでしょう(この内容は東周恵王五年・672年にも書きます)。」
   


桓王十六年
丁丑 前704
 
[] 春正月己卯(十四日)、魯が烝の儀式を行いました。烝は本来、冬の祭祀です。
 
[] 『春秋左氏伝』によると、晋曲沃の武公が翼(晋)を占領しました。
 
[] 周桓王が大夫・家父を魯に送って聘問しました。
 
[] 夏五月丁丑(十三日)、魯が再び烝の儀式を行いました。
 
[] 随国で少師(桓王十四年参照)が寵信を得ました。
楚の伯比が武王に言いました「讎(仇。敵)に隙ができました。機会を失ってはなりません。」
 
夏、楚武王が諸侯を沈鹿に集めましたが、黄国(嬴姓)と隨国が来ませんでした。武王は章を派遣して黄国を譴責します。
同時に武王は自ら隨を討伐し、漢水と淮水の間に駐軍しました。
随の賢人・季梁が随侯に言いました「楚に降りましょう。相手がそれを拒否してから戦えば、我が軍の将兵を怒らせて指揮を高め、敵を油断させることができます。」
しかし少師が隨侯に言いました「速戦するべきです。そうしなければ楚師を破る機会を失ってしまいます。」
隨侯は兵を出して布陣し、遠くから楚師を眺めました。季梁が言いました「楚人は左を尊ぶので、その君は左にいます。楚王とぶつかってはなりません。右を攻めれば右には良将がいないので必ず破ることができます。片方が敗れたら全軍が崩れるでしょう。」
少師が言いました「楚王にぶつからなかったら、我々が楚の敵ではないことを示してしまいます。」
随侯は季梁の意見に従いませんでした。
両軍は速杞で戦い、隨師が大敗します。隨侯は逃走しました。楚の大夫・丹が随の戎車(君主の車)を奪い、随侯の車右を勤めた少師を捕えました。
 
秋、隨侯が楚に講和を求めました。
楚武王は拒否して随を滅ぼそうとしましたが、伯比が言いました「天は随の害(少師)を除きました。隨はまだ攻略できません。」
武王は盟を結んで兵を退きました。
 
[] 二年前、楚が周王室に尊号(王号)を求めましたが、拒否されました(桓王十四年参照)
この年、怒った楚の国君・熊通(武王)は「我が祖先の鬻熊は文王の師だったが早く死んだ。成王が先君を諸侯にしたが、子男(子爵・男爵)の地しか与えず、辺境の楚に住ませた。その後、蛮夷は全て楚に服したが、周王は爵位を加えようとしなかった。わしは自ら尊号を名乗ることにする」と宣言し、王を称しました。今までも「武王」という名称を用いてきましたが、実際はここから楚の王号が始まります。
この後、楚は濮の地(長江上流・中流一帯からその南。楚の西南部)を開き、占有するようになりました。
 
[] 魯が邾を攻めました。
 
[] 冬十月、雪が降りました。
 
[] 『春秋左氏伝』によると、この年冬、周桓王が虢仲(林父)に命じて曲沃を攻めさせたため、武公は翼から曲沃に還りました。晋哀侯の弟・緡が晋(翼)で即位しました。この出来事に関しては桓王十四年に書きました。
 
[九] 周桓王が派遣した祭公が魯に来ました。その後、紀国に行って王后を迎えました。
この祭公が平王四十九年に魯を訪問した祭伯と同一人物かどうかはわかりません。周の三公だったため祭公と書かれているようです。
古代の婚姻は男女とも地位が同じである必要がありました。しかし天子は諸侯よりも上になります。そこで周王が諸侯から后を迎える時は、同姓(姫姓)の諸侯が王室に代わって婚姻を主宰することになっていました。今回、桓王の婚姻を主宰したのは魯国です。祭公は主催国である魯国を経由してから紀国で王后を迎え、京城洛邑に還りました。
 
[] この年、秦が蕩氏を討って占領しました。
 
[十一] 秦憲(寧公)は産まれて十歳で即位し、在位十二年で死にました。西山に埋葬されます。
 
憲公は三人の子を産みました。長男(後の武公)が太子になります。次子(後の徳公)は長子と同じ母ですが、三子は異母弟で、出子といいます。
憲公が死ぬと大庶長(官名)・弗忌と威塁(官名)・三父が太子を廃して出子を国君に立てました。
 
史記・秦本紀』は三子の母に関してこう書いています。「(寧公)生子三人長男武公為太子武公弟徳公同母魯姫子生出子」。
古文には句読点がないため理解が困難です。『資治通鑑外紀』は「長男武公為太子,武公弟徳公同母。魯姫子生出子」と解釈したようで、「出子母魯姫与太子異母」と書いています。「出子の母は魯姫で、太子とは異母である」という意味です。
しかし『史記・秦本紀』の注釈(索隠)には「徳公の母を魯姫子と号す(徳公母号魯姫子)」とあります。これを元に上述の文に句読点を打つと「長男武公為太子。武公弟徳公,同母魯姫子。生出子」となります。「武公の弟は徳公、武公と同じ母で魯姫子という。それとは別に出子が生まれた」という意味です。
中国の中華書局が出版している『史記』も後者と同じ句読点を打っており、魯姫子が武公と徳公を産み、二人の異母弟に出子がいたと解釈できます。
 
[十二] 杞の武公が在位四十七年で死に、子の靖公が立ちました。
 
 
 
桓王十七年
戊寅 前703
 
[] 春、周桓王に嫁いだ紀の季姜が京師・洛邑に入りました。
 
[] 巴子が韓服を楚に送り、鄧との友好を求めました。巴は姫姓、鄧は曼姓の国です。
楚武王は道朔に命じ、巴客(巴の使者)を連れて鄧国を聘問させました。しかし鄧国南境に位置する地の人が道朔一行を襲い、財物を奪いました。道朔と巴人は殺されます。
楚武王は章を送って鄧を譴責しましたが、鄧の国君は譴責を受け入れませんでした。
 
夏、楚武王が大夫・廉に命じ楚師と巴師を率いてを包囲させました。鄧は大夫・養甥と聃甥を送ってを援けます
鄧師は三回巴師を攻めましたが、勝てませんでした。
廉は巴師の中で陣を構えて鄧師と戦い、わざと敗退しました。鄧兵が追撃します。巴師が楚師を追撃する鄧師の後ろになりました。廉と巴師は前後から鄧師を攻撃し、鄧師は大敗しました。の地は夜の間に壊滅しました。
 
[] 秋、虢仲(周の卿士)、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯が晋の曲沃を攻撃しました。梁は嬴姓、それ以外は全て姫姓の国です。
 
[] 冬、曹伯桓公が世子(太子)・射姑を魯に来朝させました。魯は礼に従って上卿に接待をさせます。
宴を開き楽奏が始まると世子・射姑が嘆息しました。魯の大夫・施父が言いました「曹の太子は憂いがある(翌年、父の桓公が死にます)。ここは嘆息する場所ではない。」



次回に続きます。