春秋時代14 東周桓王(九) 鄭の内争 衛宣公の子 前702~700年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王十八年
己卯 前702
 
[] 春正月庚申(初六日)、曹桓公が在位五十五年で死にました。
太子・射姑(または「夕姑」)が即位します。これを荘公といいます。
 
夏五月、曹が桓公を埋葬しました。
 
[] 周の卿士・虢仲(林父)が虢国の大夫・詹父を桓王に讒言しました。
しかし詹父に理があったため、王師を率いて逆に虢公(虢仲)を攻撃しました。
夏、虢公が虞に出奔しました。虞は姫姓の国です。
 
[] 秋、秦人が芮伯・万を芮国に送り返しました。
これは『春秋左氏伝』の記述です。『竹書紀年』(古本・今本)は桓王十三年に「戎が芮伯を迎えに行った」と書いています(桓王十三年参照)
 
[] 以前、虞叔(虞公の弟)が玉を持っていたため、虞公がそれを譲るように要求しました。虞叔は拒否しましたが、暫くして後悔し、こう言いました「周には諺がある。『匹夫に罪がなくても、玉璧を持っていれば罪になる(匹夫無罪,懐璧其罪)』。私がこの玉を持っていても無用だ。これによって害を買うことはない。」
虞叔は玉を虞公に献上します。
すると虞公は宝剣を要求しました。虞叔が言いました「これではきりがない。いずれ禍が起きるだろう。」
虞叔は虞公を討伐し、虞公は共池(または「洪池」)に出奔しました。
 
[] 魯桓公が衛宣公と桃丘で会見する予定でしたが、衛宣公は来ませんでした。
 
桓王十四年に鄭公子・忽が斉を援けて功績を立てました。ところが斉が諸侯に食糧を配った時、魯は功績がある鄭を後ろに回しました。これは周王室が封侯した順を配給の順序としたからです。鄭はこれに怒って斉に魯攻撃を誘いました。斉は衛師を率いて鄭と共に魯を攻撃しました。衛宣公が魯桓公との会見を中止したのはこのためです。
 
冬十二月丙午(二十七日)、斉釐公、衛宣公、鄭荘公が魯を攻めて郎で戦いました。
 
 
 
翌年は紀元前八世紀最後の年です。
 
桓王十九年
庚辰 前701
 
[] 春正月、斉・衛・鄭が悪曹(地名)で会盟しました。
『春秋左氏伝』には宋も会盟に参加していたと書いていますが、『春秋』には宋はありません。
 
[] 楚の莫敖(官名。司馬)・屈瑕が貳・軫二国と盟を結ぶ準備をしました。
この盟約を阻止するため、鄖国が蒲騒(鄖地)に駐軍し、隨、絞、州、蓼四国と共に楚を攻撃しようとしました。鄖、絞、州、蓼は楚の近くにあった小国です。『資治通鑑外紀』によると、このうち州国は姜姓、蓼国は堯・舜に仕えた賢臣・皋陶の後裔で、偃姓の国です。
 
屈瑕が心配すると、廉が言いました「鄖人は自国の郊外に駐軍しており、警戒を怠っている。しかも四邑(四国)の援けを頼りとしている。君は郊郢に駐軍して四邑を防いでくれ。私は鋭師を率いて鄖を夜襲する。鄖は四邑とその堅固な城に頼っているので闘志はないはずだ。鄖師を破れば四邑も必ず離散する。」
屈瑕が言いました「王に援軍を求めるべきではありませんか。」
廉が答えました「軍が勝つかどうかは将兵の和(団結)にかかっている。数ではない。兵が多い商が周にかなわなかったのは君も知っての通りだ。既に軍を整えて出兵したのに、新たに兵を増やす必要はない。」
屈瑕が言いました「勝敗を卜いましょう。」
廉が答えました「卜は迷っている時に行うのだ。迷いがないのに卜う必要はない。」
夜、楚軍が蒲騒の鄖師を急襲して破り、貳・軫二国と盟を結んで兵を還しました。
 
[] 夏五月癸未(初七日)、鄭荘公が死にました。春秋時代初期に「小覇」と称えられた荘公が死に、鄭は急速に衰えていきます。
 
秋七月、鄭が荘公を埋葬しました。
 
以前、祭の封人(国の境界を守ったり城壁を修築する官)・仲足が荘公に寵信され、卿に任命されました。
祭仲(祭仲足)は鄧曼(楚武王の夫人も鄧曼といいます。どちらも鄧国の女性です)を荘公に嫁がせ、鄧曼は公子・忽を産みました。
荘公が死ぬと、祭仲は公子・忽を即位させました。これを昭公といいます。
 
宋の大夫・雍氏も娘・雍姞を鄭荘公に嫁がせ、公子・突が産まれました。雍氏は人々から敬われており、宋荘公にも信用されていました。
鄭が昭公を即位させると、宋荘公は雍氏のために祭仲を誘い出し、捕えてこう言いました「突を立てなければ汝はここで死ぬことになる。」
宋は公子・突も招いて即位したら財物を贈るように要求しました。祭仲は宋と盟を結び、公子・突を鄭に帰らせて国君に立てることにしました。

秋九月丁亥(十三日)宋と祭仲の動きを知った昭公が衛に出奔しました。
己亥(二十五日)、公子・突が即位しました。これを厲公といいます。
 
[] 魯の大夫・柔が折という場所で宋荘公、陳厲公、および蔡の大夫・叔と会盟しました。
 
[] 魯桓公が宋荘公と夫鍾(または「夫童」。郕国の邑)で会見しました。
 
冬十二月、魯桓公が闞(魯地)で宋荘公と会見しました。
 
[] かつて衛宣公が夷姜と私通し、急子(または「伋」)を産みました。夷姜は宣公の父・荘公の妾で宣公の庶母のようです。宣公は急子を右公子・職に教育させました。
後に右公子が急子のために斉の女性を娶らせることにしましたが、その美貌を見た宣公が奪って自分の妻妾にしました。この女性を宣姜といいます。太子・急子には別の女性が娶らせました。
やがて宣姜が寿(または「寿子」)と朔を産みました。宣公は寿を左公子・洩に教育させました。
その頃、夷姜は首を吊って死にました。宣姜と公子・朔は母を失った太子・急子の讒言を繰り返します。宣公はもともと急子の妻を奪ったことを引け目に感じていたため、急子を嫌い、太子の地位を廃そうと考えていました。そこに宣姜と朔の讒言を聞いたため、激怒して急子の殺害を計画します。急子を使者として斉に派遣し、莘の地に人を伏せて急子を殺させることにしました。急子に白旄(白旗)を持たせ、賊には白旄を持った者を殺すように指示します。
これを知った公子・寿が急子に伝えてこう言いました「国境の賊が太子の白旄を見たら太子を殺すことになっています。行ってはなりません。」
しかし急子は「父の命を棄てたら子として用いられなくなる。父がいない国なら逃げることもできるだろうが、ここではそうもいかない。父の命に逆らってまで生きることはできない」と言って斉に行く準備をしました。
出発前、寿が宴を開いて急子に酒を飲ませました。急子は酔いつぶれます。その間に寿が太子の旗を立てた車に乗り、斉に向かいました。賊は旄を見て寿を襲い殺します。
後から来た急子が言いました「必要なのは私の命だ。彼に何の罪があったというのだ。私を殺せ!」
賊は急子も殺して宣公に報告しました。
宣公は朔を太子に立てました。
 
詩経・邶風』の『新台』は息子のために娶った女性を自分の妻とした衛宣公を風刺した詩です。また、同じく『邶風』の『二子乗舟』は衛宣公の二子が死を争って犠牲になったことを悼んで作られた詩といわれています。
 
 
 
桓王二十年
辛巳 前700
 
[] 夏六月壬寅(初二日)、魯桓公が紀侯、莒子と曲池(または「区蛇」)で会盟しました。これは紀国と莒国の講和が目的です。
 
[] 鄭厲公が即位すると、即位を助けた宋は頻繁に賄賂を要求しました。鄭は宋と対立するようになります。そこで魯桓公は宋と鄭を講和させようとしました。
秋七月丁亥(十七日)、魯桓公が宋荘公および燕人南燕。恐らく燕君)と穀丘(句瀆の丘)で会盟しました。
 
[] 八月壬辰(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年八月に壬辰の日はありません)、陳厲公が在位七年で死に、弟の林が立ちました。これを荘公といいます。

厲公には完という子がいましたが、厲公の弟が即位したため、完は陳の大夫になりました。
 
以上は『春秋左氏伝桓公十二年)』の記述です。
史記・陳杞世家』の記述は大きく異なります。
厲公蔡女を娶りましたが、蔡女蔡人と姦通しました。厲公もしばしば国の他の女性と姦しました
厲公が殺した桓公太子には人のがいました(『春秋左氏伝』と異なります。東周桓王十四年・706年参照)。上から杵臼といいます。
厲公七年(本年)、三兄弟が蔡人を使って美女で厲公を誘い出しました。三兄弟と蔡人厲公を殺します。
こうしてが即位しました。これを利公といいます。利公桓公です(『春秋左氏伝』に「利公」という国君は登場しません)
しかし利公は即位してカ月で死んでしまったため、が立ちました。これを荘といいます

『田敬仲完世家』は『陳杞世家』とも若干異なります。
厲公は即位してから蔡女を娶りましたしかし蔡女蔡人と通淫していたため、しばしば蔡に帰りました。厲公も一緒に度々を訪れます
桓公少子厲公桓公太子が殺されたことを怨んでいたため、蔡人に命じて厲公を誘い出させ、弑殺しました。
こうしてが即位します。これを荘といいます。
厲公の子・陳完大夫になりました。

東周桓王十四年(前796年)にも書きましたが、『史記』の記述が誤りのようです。
 
[] 魯桓公は宋荘公との会盟の誠意を確認するため、再び虚(または「郯」。宋地)で宋荘公と会見しました。
 
冬十一月、魯桓公が改めて龜(宋地)で宋荘公と会見しました。ところが宋荘公は鄭との関係修復を拒否します。
 
丙戌(十八日)、魯桓公が鄭伯(厲公)と会見し、武父(鄭地)で盟を結びました。
 
[] 同日(十一月丙戌)、衛宣公が在位十九年で死にました。三兄弟の中で生き残った太子・朔が即位します。これを恵公といいます。
二公子(左公子・右公子)が恵公を憎みました。
 
[] 十二月、魯桓公が鄭師と共に宋に進攻しました。
丁未(初十日)、宋地で戦闘がありました。
 
[] 楚が絞国を攻撃し、南門に駐軍しました。
莫敖(官名)・屈瑕が言いました「絞は小さく軽率です。軽率な者は策謀に欠けます。柴を刈る者の護衛をはずして誘き出しましょう。」
楚武王はこれに従いました。
絞軍は楚人が柴刈りに出て来たのを見て急襲し、三十人を捕まえます。
明日も楚人が柴を刈りに行くと、絞の兵は争って出陣し、楚人を追って山中に至りました。楚軍は北門に兵を置き、山下に兵を伏せました。山中に来た絞兵は楚の伏兵に襲われ、慌てて逃げます。南門には楚軍が駐軍しているため、北門から城内に入ろうとしましたが、ここでも楚の伏兵の攻撃を受けて大敗しました。
楚は絞と城下で盟を結んで兵を還しました。「城下の盟」というのは城内の軍が降伏したことを表します。



次回に続きます。