春秋時代15 東周桓王(十) 斉の後継者 前699~697年

今回で東周桓王の時代が終わります。
 
桓王二十一年
壬午 前699
 
[] 前年、楚が絞を攻撃した時、楚師の一部は彭水を渡りました。熊姓の国・羅が楚軍を攻撃しようとし、大夫・伯嘉を送って様子を探らせました。伯嘉は三回、楚軍の兵を数えました。
 
春、楚の莫敖(官名)・屈瑕が羅国を攻撃しました。伯比が屈瑕を送り出します。
伯比は戻ってから御者に言いました「莫敖(屈瑕)は必ず敗れる。歩く時の足が高く上がっているのは心が平安ではないからだ。」
伯比が武王に言いました「援軍を準備するべきです。」
武王はこれを拒否しました。
王宮に戻った武王が夫人・鄧曼に話すと、鄧曼はこう言いました「大夫伯比)は軍で大切なことは数ではないと言っていました。信によって小民を安定させ、徳によって諸司(諸官)を訓戒し、刑によって莫敖に慎ませようとしているのです。莫敖は蒲騒の役(桓王十九年)での功績を自負し、羅を軽視しています。主君がそれを抑えなければ、備えを設けないでしょう。大夫は本当に援軍を出すことを進言したのではありません。主君が大衆を訓戒し、諸司を集めて徳に勉めさせ、莫敖に会って天がその過失を許すことがないと伝えることを望んでいるのです。大夫は楚師が全て出征しており、援軍を送る余裕がないことを知らないはずがありません。」
武王はすぐに頼国の人を送って屈瑕を追わせましたが、追いつきませんでした。
 
屈瑕が軍中に布告を出しました「諫言する者には刑を与える。」
屈瑕軍が鄢水を渡り始めましたが、軍は隊列を乱し、警戒もしていません。羅国に入った時、羅と盧戎(または「廬戎」)が楚軍を挟撃しました。楚軍は大敗し、屈瑕は荒谷で首を吊りました。
残った将領は自らを縛って冶父の地で武王の裁きを待ちます。武王は「これは孤(私)の罪だ」と言って全て釈放しました。
 
[] 春二月、魯桓公が紀侯、鄭伯(厲公)と会見しました。宋が鄭に対して頻繁に賄賂を要求したため、鄭は宋と対立し、魯・紀と同盟しました。
 
己巳(初三日)、鄭厲公が魯桓公と紀侯を率い、斉釐公、宋荘公、衛恵公、燕人南燕の国君)と紀(または魯)の領内で戦いました。斉・宋・衛・燕連合軍が敗れました。
 
[] 三月、衛が宣公を埋葬しました。
 
[] 夏、大水(洪水)がありました。
 
[] 鄭が魯に使者を派遣し、関係を強化しました。

[六] 『史記・斉太公世家』によると、この年、斉釐公の同母弟・夷仲年が死にました。
釐公は夷仲年の子・公孫無知を寵愛し、秩服(秩禄・服飾)を太子と同等にしました。



桓王二十二年
癸未 前698
 
[] 春正月、魯桓公が曹で鄭厲公と会見しました。曹荘公が食糧を提供しました。曹も会見に参加していたのかもしれません。
 
[] 気温が高かったため川に氷がはることがありませんでした。
 
[] 夏五月、鄭厲公が弟・語(または「禦」。字は子人。荘公の子、厲公の弟)を魯に送りました。武父の盟(桓王二十年)と曹の会の関係を強化するためです。
 
[] 秋八月壬申(十五日)、魯の御廩(食糧庫、もしくは諸侯の宝物庫)で火災がありました。
乙亥(十八日)桓公が嘗の祭祀を行いました。嘗は秋嘗ともいう宗廟の祭りです。
この年八月の壬申は十五日、乙亥は十八日です。古代は火災のような災害が起きたら天の戒めとして恐れるものでしたが、魯桓公は火災を気にすることなく、三日後には盛大な祭祀を行いました。
 
[] 斉釐公(僖公)には諸児、糾、小白という子がいました。このうち、糾の母は魯人、小白の母は衛人です。
釐公が鮑叔牙を少子・小白の傅(教育官)に任命しようとすると、鮑叔牙は病と称して家にこもりました。管仲と召忽が鮑叔牙を訪ねて理由を聞きます。鮑叔牙が言いました「子を知るのは父に勝る者なく、臣を知るのは主君に勝る者がない(知子莫若父,知臣莫若君)という。主君は私が不肖(役に立たない)と判断したから、国君になれない小白の補佐を命じたのだ。私は主君にあきらめられたのだろう。だから命を受ける気はない。」
召忽が言いました「君がどうしても辞退するというのなら、家から出るな。君の病が重くて死にそうだと報告すれば、任命から逃れることができるだろう。」
鮑叔牙が「君がそうしてくれるのなら、きっと免れることができる」と言って喜びましたが、管仲が反対して言いました「社稷・宗廟の大事を行う者は、職務を避けず(不譲事)、暇を貪らないものだ(不広閑)。将来、誰がこの国を治めるかはまだ分からない。君は命に応じるべきだ。」
召忽が言いました「それは違う。我々三人は斉国において鼎の脚のようなものだ。ひとつが去ってしまったら三人とも立つことができない。小白は国の後継者にはなれない。行く必要はない。」
管仲が言いました「諸児は年長だが品行が悪く、今後どうなるか分からない。斉国を安定させるのは二公子(糾と小白)のどちらかに違いない。しかし国人は皆、糾の母を嫌い、憎しみは糾自身にも及んでいる。逆に小白は母がいないことを同情されている。それに小白は小智(大局を見ることができない小智慧。狡賢い智慧がなく、慎重で遠望がある。私でなければ彼を理解することはできないだろう。不幸にも天が斉に禍を降し、糾が即位したとしても、彼に功績を立てることはできない。社稷を安定できるのは、小白を補佐する君しかいない。」
鮑叔牙は小白の傅を勤めることにしました。
管仲が鮑叔牙に言いました「人の臣となる者は、主君に対して尽力しなければ信任されることはない。信任されなければ進言を聞いてもらえず、進言が聞かれなかったら社稷は安定しない。主君に対して二心を抱かず、尽力しなければならない。」
鮑叔牙は納得しました。
この話は『管子・大匡(第十八)』にあります。一部を抜粋しました。
 
冬十二月丁巳(初二日)、斉釐公が在位三十三年で死に、諸児が継ぎました。これを襄公といいます。
 
[] 宋人が斉・蔡・衛・陳を率いて鄭を攻撃しました。前年の報復です。
宋軍は鄭国の渠門(城門)を焼いて城内に侵入し、大道に至りました。
また、東郊を攻撃して牛首を奪いました。
宋軍は鄭の大宮(太廟)の椽木を奪って凱旋し、宋の盧門(城門)の椽木に使って鄭を辱めました。
 
[七] この年、秦の出子六年、三父等(桓王十二年参照)が共謀し、人を使って出子を殺害させました。出子は五歳で即位し、在位六年で死にました。
三父等は憲公の元太子を擁立します。これを武公といいます。
 
[] 燕の宣侯が在位十三年で死に、子の桓侯が継ぎました。桓公の時代、燕は臨易を都にしました。
 
 
 
桓王二十三年
甲申 前697
 
[] 春二月、周桓王が大夫・家父を魯に派遣して車を求めました。
諸侯は車や服を献上することなく、天子は自分のために財を求めてはならないといわれており、桓公の行為は礼に背いたものでした。
 
[] 三月乙未(十一日)、周桓王が死にました。子の佗が即位します。これを荘王といいます。
 
桓王の時代は信を失い、礼や義が廃れ、男女の風俗が乱れ、讒言や偽りが横行し、諸侯が叛して九族が睦むことなく、怨み禍が積もっていったと評されています。『帝王世紀』は『詩経・王風』に収録されている『兔爰』『葛藟』『采葛』『大車』の四篇を桓王時代に作られた詩としています。但し、『毛詩正義』によると『葛藟』は本来兔爰』の前にあったはずなので、『帝王世紀』は誤りで『葛藟』は平王時代の詩であると解説しています。
 
[] 夏四月己巳(十五日)、斉が釐公を埋葬しました。

史記・斉太公世家』によると、釐公の子・襄公が太子だった頃、公孫無知(釐公の弟・夷仲年の子)としばしば争っていました。公孫無知が釐公に気に入られており、秩服(秩禄と服飾)が太子と同等だったためです。
この年(斉襄公元年)、襄公が無知の秩服を落としました。無知は襄公を怨みました。
 
[]  五月、鄭で祭仲が専権したため、厲公が嫌い、祭仲の娘婿・雍糾(大夫)に暗殺を命じました。雍糾は郊外で宴を開いて祭仲を招きます。それを知った雍姫(雍糾の妻。祭仲の娘)が母に聞きました「父と夫ではどちらがより親しいものでしょうか。」
母が言いました「人は誰でも夫になれますが、父は一人しかいません。較べることはできないでしょう。」
そこで雍姫は祭仲に暗殺の計画を伝えて言いました「雍氏は家ではなく郊外で宴を開こうとしています。疑わしいと思うので教えに来ました。」
祭仲は雍糾を殺し、死体を周氏之汪(池)に晒しました(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・鄭世家』は「市で処刑した」と書いています)
厲公は雍糾の死体を車に乗せて逃走し、こう言いました「謀を婦人に漏らすとは、殺されて当然だ。」
厲公は蔡(『史記・鄭世家』は「櫟」としていますが、恐らく誤りです)に出奔しました。
 
六月乙亥(二十二日)、祭仲が昭公(世子・忽)を鄭に迎え入れ、復位させました。

[] 許国の東郊に住んでいた許叔(桓王八年)が許国に入りました。
桓公が艾(または「鄗」「蒿」)で斉襄公と会見しました。許国を安定させる計画を相談するためです。
 
[] 邾君、牟君、葛君が魯に来朝しました。
 

[] 秋九月、鄭厲公が櫟人の助けを借りて檀伯(または「単伯」。櫟は鄭の大邑で、檀伯はそこを守る大夫)を殺しました。厲公は櫟に住みました。

[] 冬十一月、魯桓公(または「侈」)宋荘公、衛恵公、陳荘公と会盟し、鄭を攻撃しました。厲公を帰国させるためです。しかし失敗して兵を還しました。
 
宋国は鄭厲公に大軍を預けて櫟邑を守らせました。そのため鄭国は櫟邑を討伐できなくなりました。
 
[八] この年、秦武公が彭戯氏戎族)を討伐して華山華嶽)の麓に至り、平陽の封宮に居住することにしました。
 
 
 
次回から東周荘王の時代です。