春秋時代16 東周荘王(一) 魯桓公の死 前696~694年

今回から東周荘王の時代です。
 
荘王
東周桓王が死んで子の佗が立ちました。これを荘王といいます。
 
 
荘王元年
乙酉 前696
 
[] 春正月、魯桓公が宋荘公、蔡桓公、衛恵公と曹で会見しました。鄭厲公の復位を相談する会議です。会見が行われた曹国の国君は参加していないようです。
 
夏四月、魯桓公が宋荘公、衛恵公、陳荘公、蔡桓公が鄭を攻撃しました。しかし厲公の復位は失敗しました。
 
秋七月、魯桓公が鄭攻撃から帰国しました。宗廟に報告し、臣下を集めて宴を開きました。
 
[] 冬、魯が向に築城しました。
 
[] 十一月、衛の左公子・洩と右公子・職(桓王二十年、前700年参照)が恵公を攻め、公子・黔牟を擁立しました。黔牟は宣公の太子・急子(伋)の同母弟のようです。
恵公は斉に出奔しました。

この事件を『春秋左氏伝』『史記・衛康叔世家』とも本年(前696年)に書いていますが、『史記・十二諸侯年表』は前年のこととしています。
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年に「鄋瞒(狄族)が斉を攻撃した。斉の大夫・王子成父が反撃して長狄栄如を捕え、衛軍もその弟の長狄簡如を捕えた」と書いています。
これは『春秋左氏伝』「文公十一年(周頃王三年、前616年)」の「斉襄公之二年(周荘王元年)鄋瞒伐斉(後略)」という記述が元になっています。しかし「斉襄公之二年」は、「斉恵公之二年」の誤りで、周荘王元年ではなく周匡王六年(前607年)のことといわれています。『史記・斉太公世家』『史記・十二諸侯年表』のどちらも斉恵公二年のこととしています。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に「(東周荘王)元年乙酉、曲沃に一軍があり、晋とは異なる(曲沃尚一軍,異于晋)」と書いています。これは曲沃武公元年の記述と重複しているようです(桓王五年、前715年参照)
一軍は兵一万二千五百を擁しています。「晋と異なる」というのは本家の晋(翼)よりも大きな勢力を持っているという意味だと思われます。
 
 
 
荘王二年
丙戌 前695
 
[] 春正月丙辰(十三日)、魯桓公が黄の地で斉襄公、紀侯と会盟しました。斉と紀の関係を改善させること、衛の混乱に協力して対応することが目的です。
 
[] 二月丙午(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の二月に丙午の日はありません)、魯桓公が邾儀父でと会盟しました。蔑の盟(平王四十九年、前722年)で結んだ関係を強化するためです。
 
[] 夏五月丙午(初五日)、魯と斉が奚の地で戦いました。国境での衝突です。魯と斉は正月に会盟したばかりなのに、戦闘が起きました。
『春秋左氏伝』(魯国を中心とした史書によると、斉が魯の国境を侵したことが発端のようです。国境の官吏が報告に来ると、桓公が言いました「国境の事は慎んで防守し、不測の事態に備えるものだ。力を尽くして防備を整えればいい。事が発生したら迎撃せよ。このように小さな衝突で、いちいち指示を求めることはない。」
 
[] 六月丁丑(初六日)、蔡桓公が在位二十年で死にました。蔡人は陳にいた蔡季(献舞。桓公の弟)を招きました。
 
秋八月、蔡季が陳から蔡に帰って即位しました。これを哀侯といいます。
癸巳(二十三日)、蔡が桓侯を埋葬しました。
 
[] 魯と宋・衛が邾を攻撃しました。宋の意思による出兵です。魯と邾は二月に会盟したばかりでした。
 
[] 冬十月朔、日食がありました。
 
[] 以前、鄭荘公が高渠彌高渠眯)を卿に任命しようとしました。公子・忽(昭公)は高渠彌を嫌っていたため反対しましたが、荘公は公子・忽の意見を無視して高渠彌を卿にしました。
昭公が即位すると、高渠彌は害されることを恐れました。
 
辛卯、高渠彌が昭公と狩りに行き、郊野で射殺しました。
祭仲と高渠彌は櫟の厲公を迎え入れず、昭公の弟にあたる子亹を立てました。諡号がないため子亹と書かれます。
 
[] この年、秦武公が三父等を捕え、三族皆殺しにしました。三父等が出子を殺したからです桓王二十二年、前698年参照)
 
 
 
荘王三年
丁亥 前694
 
[] 春正月、魯桓公が斉襄公と濼で会見しました。桓公は夫人・姜氏(文姜)を連れて斉に入ります。
大夫・申繻が諫めて言いました「女に家(夫)があり、男に室(妻)がある場合は、互いに軽率なことをしないものです。これを礼といいます。礼に反したら敗亡します。」
桓公は諫言を聞きませんでした。
 
斉に入った文姜は斉襄公と姦通しました。『史記・斉太公世家』を見ると、文姜は斉襄公の妹(女弟)とあります。母が異なる兄妹だったのかもしれません。文姜は魯桓公に嫁ぐ前から襄公と姦通しており、今回、再び関係をもつようになったようです。
それを知った魯桓公は文姜を譴責しました。文姜は斉襄公に訴えます。
 
夏四月丙子(初十日)、斉襄公が魯桓公を宴に招きました。酒がすすみ桓公は酔いつぶれます。
宴の後、斉の公子・彭生が桓公を車に乗せました。彭生は『史記・斉太公世家』では「力士」と称されています。大力の持ち主です。その彭生が桓公を馬車に乗せる時、抱きかかえて桓公の脅(脇の下から肋骨に至る部分)を押しつぶしました。肋骨の骨を折られた桓公は車内で死にました。
 
斉の竪曼が襄公に言いました「賢者とは死によって忠を示し、疑惑を除いて百姓()を安定させるものです。また、智者とは理を尽くして遠くを考えるから、身の危険から逃れることができるのです。今、彭生は国君に次ぐ重要な地位にいながら、忠諫をすることなく、阿諛によって主君を弄び、主君に親戚の礼を失わせました。その結果、我が君の禍を招き、二国の間に怨みが形成されました。彭生がその罪から逃れることはできません。主君は怒りによって禍を作り、悪を憎むことなく彭生に対して寛容でいます。これは無恥な選択であり、彭生一人の問題ではなくなります。もし魯が我が国の罪を問うたら、言い訳として彭生を使う必要があるでしょう。」
竪曼の言葉は『管子・大匡(第十八)』にあります。一部簡訳しました。
 
魯が桓公の死を斉に伝え、こう通知しました「寡君(我が国の君主)は貴君の威を恐れ、安居しているわけにはいかず、旧好を修復するために貴国を訪問しました。しかし礼が成立したのに(会見が終わったのに)帰国することなく、その罪を咎める相手もいません。これでは諸侯に悪い影響を及ぼします。彭生を除いてください。」
斉は彭生を処刑して魯に謝罪しました。
 
魯は太子・同を立てました。これを荘公といいます。
 
五月丁酉(初一日)、魯桓公の死体が斉から魯に還りました。文姜は斉に留まりました。
 
[] 秋、斉襄公が軍を率いて首止に駐軍し、諸侯を集めました。鄭で即位した子亹も参加することにしました。
 
以前、斉襄公が公子だった時、鄭子亹と争ったことがありました。その時から二人は憎しみ合っています。
祭仲が子亹に参加を中止するよう進言しましたが、子亹はこう言いました「斉国は強大で、突(厲公)は櫟にいる。もしわしが行かなかったら斉は諸侯を率いてわしを討ち、突を鄭に入れるだろう。例え参加したからといって、必ず辱めを受けるとも限らない。」
子亹は出発し、補佐として高渠彌も従いましたが、祭仲は変事があることを覚り、病と称して留まりました。
 
子亹は首止に入りましたが、斉襄公に謝罪もしませんでした。
七月戊戌(初三日)、斉襄公が兵を埋伏させて子亹を襲い殺害しました。
 
鄭に残った祭仲は陳に住んでいた子儀(公子・嬰。昭公と子亹の弟)を招いて即位させました。これを鄭子といいます。
尚、『春秋左氏伝』は高渠彌も斉に殺されたとしていますが、『史記・鄭世家』では、高渠彌は鄭に逃げ帰り、祭仲と相談して鄭子を立てたと書いています。『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』は『春秋左氏伝』の説を採っています。
 
また、『竹書紀年』(古本)には「鄭殺其君某」と書かれています。「鄭がその君・某を殺した」という意味です。「君某」は子亹を指すとされているので、「斉が子亹を殺した」とする『春秋左氏伝』『史記・鄭世家』とは異なります。
 
[] 冬十二月己丑(二十七日)、魯が桓公を埋葬しました。
 
[] 周公・黒肩が荘王を殺して王子・克を立てようとしました。王子・克は荘王の弟で子儀といいます。
しかし大夫・辛伯が荘王に伝え、荘王を助けて周公・黒肩を殺しました。王子・克は燕南燕。姞姓の国)に出奔します。
 
かつて桓王は子儀を寵愛しており、周公に教育を託していました。それを危険と感じた辛伯が周公に諫言しました「妾が后(正妻)に並び、嫡子と庶子が同等になり、正卿が二人並び、大城と国都が同じ大きさになること、これらは乱の本になります。」
周公は諫言を聞かず、禍を招きました。

以上、『春秋左氏伝』を参考にしました。史記』の『周本紀』『十二諸侯年表』は翌年のこととしています。周と魯の暦が異なるため、ずれが生じたのかもしれません。
 

 
次回に続きます。