春秋時代17 東周荘王(二) 衛恵公復位 前693~687年
今回も東周荘王の時代です。
荘王四年
戊子 前693年
三月、文姜が改めて魯から斉に奔りました。
[二] 周王室が斉と婚姻を結ぶことになりました。周では前年、王子・克の事件があったため、荘王は王位を固めるため諸侯との関係強化を図ったようです。
当時の婚姻は地位身分が対等な者同士で行うものでしたが、天子と諸侯は地位が異なります。そこで同姓の諸侯が天子の代わりに婚姻を主宰することになっていました。今回は魯が周王室と斉の間に入って婚姻を主持します。
夏、周の卿・単伯が王姫を連れて魯に入りました。
王姫は周王室の王女の総称です。この時、斉に嫁ぐことになった王姫は平王の孫娘のようです。
秋、魯が王姫の館舎を宮外に建てました。
[三] 冬十月乙亥(十七日)、陳荘公が在位七年で死に、弟の宣公・杵臼が立ちました。
[五] 王姫が斉に入りました。
[六] 斉師が紀国の郱邑、鄑邑、郚邑の民を遷し、その地を奪いました。
荘王五年
己丑 前692年
[一] 春二月、陳が荘公を埋葬しました。
[二] 夏、魯の公子・慶父(荘公の同母弟、または庶兄)が軍を率いて於餘丘(または「餘丘」)を攻撃しました。於餘丘は魯周辺の小国のようです。
[三] 秋七月、前年、斉に嫁いだ王姫が死にました。
[五] 乙酉(初四日)、宋荘公が在位十八年で死に、子の閔公(湣公)・捷が立ちました。
荘王六年
庚寅 前691年
[一] 春正月、魯の公子・溺(大夫)が斉師と共に衛を攻撃しました。衛から出奔した恵公は斉にいます。この出征は衛君・黔牟の討伐が目的のようです。
[二] 夏四月、宋が荘公を埋葬しました。
[三] 五月、周がやっと桓王を埋葬しました。改葬したともいわれています。
[四] 秋、紀侯の弟・紀季が酅邑を拠点にして斉に帰順しました。紀国は二分し、酅邑は斉の附庸となります。
[五] 冬、魯荘公が兵を率いて滑(または「郎」。鄭地)に入り、鄭伯(子儀)と会見しました。当時、斉が紀国併合を狙っていたため、魯は紀国救援を鄭に求めようとしました。
しかし鄭は厲公が住む櫟と対立状態だったため、大国・斉との戦いを避けて断りました。
[六] この年、燕桓侯が在位七年で死に、子の荘公が立ちました。
荘王七年
辛卯 前690年
[一] 春二月、魯の夫人・姜氏(文姜)が祝丘(魯地)で斉襄公と宴を開きました。
[二] 周王室が随侯を招き、楚が王を名乗ったことを譴責しました。随が楚の称王に協力したためです(東周桓王十四年、前706年参照)。
随侯が周の招きに応じたため、楚武王は随が裏切ったと思って激怒しました。
三月、武王が軍に命を下し、兵に武器を与えて隨攻撃の準備を進めました。出陣前の斎戒の際、王宮に入って夫人・鄧曼に言いました「わしの心は不安定だ。」
鄧曼が嘆息して言いました「王の禄(福)は既に尽きたのでしょう。満ちたら不安定になるのは天の道理です。先君はそれを知っているから、武事に臨み大命(出征の命令)を下そうという時に王の心を不安定にさせているのです。もし師(軍)に損失がなく、王だけが薨じるのなら、それは国の福というべきでしょう。」
武王は出征し、樠木の下(もしくは樠木山の麓)で死にました。
死ぬ前に武王は令尹(官名)・鬬祁、莫敖(官命)・屈重に命じて喪を隠させ、道を開き、溠水に橋をかけて隨国国境に陣を構えさせました。
隨人は楚軍を恐れて講和を求めます。
楚軍が漢水を渡ってから武王の喪が発せられました。
武王の子・熊貲が楚王になりました。これを文王といいます。
『史記・楚世家』には始めて郢を都にしたとあります。
[三] 魯から紀に嫁いだ伯姫(平王五十年、前721年参照)が死にました。
[四] 夏、斉侯(襄公)、陳侯(宣公)、鄭伯(子儀)が垂の地で会いました。
[五] 紀国が大国・斉の圧力に堪えることができなくなりました。斉が紀を攻撃していたようです。
紀侯は斉に降伏せず、前年、斉の附庸となった酅邑の紀季に後を委ねて紀国を去りました。
六月乙丑(二十三日)、紀国の主が不在のため、斉襄公が伯姫を埋葬しました。
荘王八年
壬辰 前689年
この時、斉襄公は紀国を占領したばかりだったため、軍中にいたようです。あるいは冬に行われる衛攻撃の準備のため、軍中にいたのかもしれません。
[二] 秋、郳国(または倪。邾国から封じられた国で、五爵に属さない附庸国)の犁来(または「黎来」)が魯に来朝しました。
[三] 冬、斉襄公が魯・宋・陳・蔡と共に衛を攻撃しました。桓王二十三年(前696年)に斉に亡命した衛恵公を国に帰らせるためです。この戦いは翌年に続きます。
[四] この年、楚文王が郢に都を置きました。
荘王九年
癸巳 前688年
[一] 春正月、周王室の属官・子突が諸侯に攻撃されている衛(黔牟)を援けました。
夏六月、衛恵公が諸侯に守られて衛国に還りました。
衛君・黔牟は周に、大夫・甯跪は秦に放逐されます。左公子・洩と右公子・職は殺されました。
こうして恵公が復位しました。
以上は『春秋左氏伝』の記述を元にしました。
『史記』の『衛康叔世家』は「衛君黔牟立八年に諸侯が衛を攻めて恵公を入れた」としています。黔牟八年は周荘王八年(前689年)です。また、『十二諸侯年表』では黔牟十年(荘王十年、、前687年)に黔牟が出奔し、翌年(荘王十一年、前686年)に恵公が復位したと書いています。
秋、魯荘公が衛から帰国しました。
[二] 螟(害虫)の被害がありました。
[四] 楚文王が申国を攻撃し、途中で鄧国を通りました。『資治通鑑外紀』によると、申は姜姓で伯爵の国です。
鄧の祁侯が言いました「楚王はわしの甥だ。」
祁侯は文王を招いて宴を開きました。騅甥、聃甥、養甥(三甥。全て鄧の親戚)が楚文王を殺すように進言しましたが、祁侯は同意しません。
三甥が言いました「鄧国を滅ぼすのはこの人です。早く手を打たなければ後悔することになります。今こそ好機です。楚王を除きましょう。」
しかし祁侯はこう言いました「そのようなことをしたら人々は私を唾棄し、我が国の祭祀で残った食物も食べなくなるだろう。」
三甥が言いました「もしわれわれ三臣に従わなかったら、我が国の社稷が祭祀を受けることもなくなります。どうして食物が残るのですか。」
結局、祁侯は進言を聞き入れませんでした。
三甥が心配した通り、楚は申国を攻撃した還りに鄧を撃ちました。
楚文王十二年(周釐王四年、前678年)、楚が再び鄧に進攻して滅ぼしました。
[五] この年、秦が邽・冀の戎を討ち、県を置きました。
荘王十年
甲午 前687年
[二] 夏四月辛卯(初五日)の夜、恒星(宿星)が見えなくなりました。夜中、星が雨のように流れ落ちました。流星のために空が明るくなり、恒星が見えなくなったのかもしれません。
[三] 秋、魯で大水(洪水)がありました。
[四] この年の魯は不作で麦ができず、苗も育ちませんでした。
但し、嘉穀(祭祀に用いる黍稷)には影響がありませんでした。
[五] 冬、文姜が穀(斉地)で斉襄公に会いました。
[六] この年、秦が杜と鄭に県を置きました。
秦が小虢を滅ぼしました。西周時代に西虢という国がありましたが、平王が東遷した時(平王元年、前770年)に西虢も東に移動し、北虢と南虢という国になりました。しかし一部は西方に留まったようです。これを小虢といい、秦が滅ぼしたのはこの国です。
もしくは、小虢は羌族の別種ともいわれています。
次回に続きます