春秋時代19 東周荘王(四) 長勺の戦い 前684~682年

今回で東周荘王の時代が終わります。
 
荘王十三年
丁酉 前684
 
[] 斉では桓公が政治改革を進め、軍を強化しています。
春正月、桓公が魯を討伐しようとしました。しかし管仲が言いました「いけません。『領土を擁する国君は軍事に勤めず(不勤于兵)、辱めを受けたことを憎まず(不忌于辱)、過ちを繰り返さない(不輔其過)、そうすれば社稷を安定させることができる』といいます。軍事を優先し、辱めを憎み、過ちを繰り返したら、社稷を危うくします。」
桓公は諫言を聞き入れず、魯に兵を向けました。
 
魯荘公が迎撃の準備をしている時、曹劌(曹沫)という男が謁見を求めました。
同郷の人々が曹劌に言いました「毎日肉を食べる人達(大夫以上)が対策を謀っているのだ。あなたが行っても無意味だろう。」
曹劌が答えました「肉を食べている者達は頭が固く、遠謀を持たない。」
 
荘公は曹劌を引見しました。
曹劌が荘公にどうやって兵を率いるつもりかを問うと、荘公はこう言いました「着る物も食べる物も一人占めせず、全て人と分けて共有するつもりだ。」
曹劌が言いました「小恵小恩を全国に行き届かせることはできません。民は従わないでしょう。」
荘公が言いました「祭祀で用いる犧牲や玉帛を増やすことなく、祝史(祭官)の祈祷には信をもたせよう(真実だけを反映させよう)。」
曹劌が言いました「小信(小さな誠心)で全てを覆うことはできません。神は福を降さないでしょう。」
荘公が言いました「大小の案件訴訟に対して、完全に明らかにすることはできないかもしれないが、実情に合わせて理にかなった裁きをしよう。」
曹劌が言いました「それこそ忠(民に尽くすこと)の一つです。民を率いて一戦することができるでしょう。戦いになったら私を従わせてください。」
 
荘公と曹劌は同じ車に乗って長勺で斉師と戦いました。
荘公が戦鼓を打とうとすると、曹劌が「まだです」と言いました。
斉師が三回目の戦鼓を打った時、曹劌はやっと「今です」と言って一回目の戦鼓を敲かせます。
魯兵が斉軍を襲い、斉は大敗しました。
荘公が追撃しようとすると、曹劌は「お待ちください」と言って車を降り、地面に残された車轍の様子を見てから軾(車前の横木)に登って遠くを眺め、やっと「追撃しましょう」と言いました。
魯師が追撃して戦果を拡大しました。
 
戦いが終わってから荘公が曹劌に戦勝の理由を聞きました。曹劌が答えました「戦とは勇の気によって行うものです。戦鼓を一度敲いたら気が作られ、二度敲いたら衰え、三度敲いたら尽きてしまいます。敵は戦鼓を三回敲いて気を尽きさせ、我々は始めの戦鼓で気を満たしたので勝つことができたのです。しかし大国とは予測が難しく、伏兵を置いている恐れがあります。私が車轍の乱れを確認し、遠くの旗が倒れているのを眺めてから追撃させたのは、それによって敵が混乱しており、伏兵がないと判断したからです。」
 
[] 二月、魯荘公が宋を攻撃しました。
 
[] 三月、宋が宿邑の民を遷し、その地を奪いました。この宿邑が元々どこの国の領地かははっきりしません。
 
[] 夏六月、斉と宋が魯の郎に駐軍しました。
魯の大夫である公子・偃が荘公に言いました「宋師は整っていないので先に打ち破ることができます。宋が敗れたら斉も退くでしょう。攻撃をお許しください。」
荘公は同意しませんでした。
しかし公子・偃は馬に虎の皮を被せると、雩門(魯の南城西門)から出陣します。荘公もそれに続いて城を出ました。宋軍は乗丘で大敗し、斉は兵を還しました。
 
この戦いで魯荘公は金僕姑という矢で宋の猛将・南宮長万(宋万。南宮は氏、名は万で長は字)を射ました。荘公の車右・孫が南宮長万を生け捕りにしました。

尚、『史記・宋微子世家』は乗丘の戦いを宋湣公(閔公)十年(東周荘王十五・前682)の事としていますが、湣公八年の誤りです。 

[] 以前、蔡の哀侯が陳から妻を娶りました。後に息侯も陳から妻を娶ります。息嬀(息国に嫁いだ陳女。嬀は陳の姓)が息に向かう時、蔡を通りました。すると蔡哀侯は「私の姨(妻の姉妹)だ」と言って蔡国に留め、無礼を行いました。
それを聞いた息侯は怒って楚に使者を送り、文王にこう言いました「我が国を攻めてください。我々は蔡に援軍を求めます。そこを襲えば蔡を破ることができます。」
楚文王は同意しました。
 
秋九月、楚が莘(蔡地)で蔡師に大勝し、哀侯を捕虜にして帰国しました。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・管蔡世家』を見ると「蔡哀侯は楚に連れていかれて九年後に楚で死んだ」と書かれていますが、『史記・楚世家』には「楚が蔡哀侯を捕え、暫くして釈放した」とあります。蔡哀侯が楚で死んだのか蔡で死んだのかははっきりしません。
 
この後、楚がますます強大になり、長江・漢水の間に領土を拡大しました。小国は楚を恐れました。
 
[] 斉桓公が国外に亡命した時、譚国を通りましたが譚の国君は礼遇しませんでした。桓公が即位した時も、諸侯は祝賀しましたが譚君は来ませんでした。

冬十月、斉が譚国を滅ぼし、譚子は同盟国の莒に奔りました。

史記・斉太公世家』は「譚」を「郯」としていますが、郯国は今後も登場するので誤りです。
 
 
 
荘王十四年
戊戍 前683
 
[] 宋が乗丘の役(前年)の報復のために魯を攻めました。魯荘公は兵を率いて反撃します。
夏五月戊寅(十七日)、宋師が陣を構える前に魯師が近接し、宋師を破りました
 
[] 秋、宋で大水(洪水)がありました。
魯荘公が慰問の使者(『春秋左氏伝』には使者の名がありませんが、『史記・宋微子世家』は臧文仲が使者になったとしています)を宋に送ってこう伝えました「天が大雨を降らせて穀物を害したので、こうして慰問します。」
宋閔公が答えました「孤(私)は天に対して誠に不敬だったため、天が災を降された。こうして貴君に心配をかけて慰問を受けるのも、恐れ多いことだ。」
これは『春秋左氏伝(荘公十一年)』の記述です。『史記・宋微子世家』では、湣公(閔公)はこう言っています「寡人鬼神に仕えることができず、を修めなかったため、害を招いてしまった。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
魯の臧文仲(臧孫辰)が言いました「宋は興隆するだろう。禹夏王朝創始者も湯商王朝創始者も自分の罪を反省したから興隆し、桀夏王朝最後の王)や紂(商王朝最後の王)は他者に罪を探して罰していたから滅亡した。また、諸侯で災難があった時、自分を『孤』と称するのも礼にかなっている。言葉に畏敬を表し、名称に礼があるのだから間違いない。」
暫くして「あれは公子・御説(または「禦説」。宋荘公の子。閔公の弟。『史記・宋微子世家』では子魚。子魚は目夷といい、桓公庶子の言葉です」と報告する者がいました。
臧孫達(臧哀伯)が言いました「彼は国君にふさわしい。民を慈しむ心を持っている。」
 
[] 斉桓公が周王室の女性を娶ることになりました。周と同姓の魯が婚姻を主宰します。
冬、共姫(王姫)を迎え入れるため、斉桓公が魯に入りました
 
[] 前年の乗丘の役で宋の南宮長万が魯に捕えられました。
この年、宋が長宮長万の釈放を求め、魯はそれに同意しました。
帰国した南宮長万に宋湣公(閔公)が冗談を言いました「以前、わしは汝を尊敬していたが、汝は魯の捕虜となった。今後、汝を尊敬することはない。」
南宮長万は湣公を怨むようになりました

以上は『春秋左氏伝(荘公十一年)』の記述です。『史記・宋微子世家』は少し異なります。以下、『史記』の記述です。
宋湣公十年(翌年。東周荘王十五年・682年)を攻めて乗で戦いました(乗丘の戦いは前年の出来事なので、『宋世家』の誤りです)南宮万を生け捕りにしました
十一年(二年後。東周釐王元年年・681年)の秋に湣公南宮万が狩りに行き、(棋上の遊戯)で言い争いになりました。怒った湣公が南宮万を罵って以前、わしは汝を敬っていたが、の汝はに過ぎないと言いました。
南宮万は怪力の持ち主でした。湣公のに怒った南宮万は(棋盤)湣公を殴り殺してしまいました。澤で起きた事件です。
荘公殺害に関しては『春秋左氏伝』を元に翌年再述します。



荘王十五年
己亥 前682
 
[] 春三月、紀国の叔姫がに入りました。叔姫は桓王四年(前716年)に紀に嫁いだ魯恵公の娘です
紀国は斉に占領され、紀君は出奔しましたが、には紀侯の弟・紀季がいたため、叔姫はを頼りました(荘王七年、前690年参照)
 
[] 秋八月甲午(初十日)、宋湣公を憎んでいた宋万南宮長万)が蒙沢で湣公を殺しました(『史記・宋微子世家』は翌年の事としています。前年参照)
これを聞いた大夫・仇牧が兵を率いて宮門に駆けつけましたが、宋万に遭遇して殺されました史記・宋微子世家』は怪力の南宮万が仇牧を殴り、折れた歯が飛んで門扉に突き刺さったとしています
宋万は東宮の西で大宰・華督も殺し、子游(公子・游)を即位させました。
他の公子達は䔥(子姓の附庸国)に奔り、公子・御説(湣公の弟)は亳に逃げます。
南宮牛(長万の子、または弟)と猛獲が兵を率いて亳を包囲しました。
 
冬十月、叔大心(叔は兄弟の序列です。「伯」は長男、「仲」は次男、「叔」は三男、「季」は少子を表します。大心が名です。後に䔥邑を与えられて䔥叔と名乗りました)および戴公、武公、宣公、穆公、荘公の子孫一族が曹国の兵を借りて反撃しました。南宮牛は師亳の一部)で殺され、即位したばかりの子游も宋で殺されます。
宋人は御説を即位させました。これを桓公といいます。
 
猛獲は衛に、南宮万(長万)は陳に奔りました。この時、南宮万は母を載せた車を自分で牽き、一日で陳に入ったといいます。
 
宋は衛に猛獲の引き渡しを要求しました。衛恵公が拒否しようとしましたが、大夫・石祁子が言いました「いけません。天下が悪とする者は共通しています。宋で悪とされる者を我々が庇うべきではありません。一夫を得て一国との関係を失い、悪の味方をして友好を棄てるのは正しい考えではありません。」
衛は猛獲を宋に返しました。
 
宋は陳にも南宮万を求め、賄賂を贈りました。陳は婦人を使って南宮万に酒を飲ませ、酔ったところを犀革(犀の皮)の袋に入れて宋に送り返しました。南宮万が宋に着いた時、南宮万が暴れたため手足が袋を破って外に出ていました。
 
宋は猛獲と南宮万を処刑しました。
 
[] この年、東周荘王が死に、子の釐王僖王)胡斉が立ちました。
 
[] 鄭の賢人・祭仲が死にました。
 
 
 
次回から東周釐王の時代です。