春秋時代 管仲の政治(一)

管仲の政治に関して、『資治通鑑外紀』は『管子』『国語・斉語』等に書かれている内容を抜粋しています。本編では書けなかったのでここで一部紹介します。
*『資治通鑑前編』も『国語』『管子』等から管仲の政治に関して多数の記述をしていますが、省略します。
 
『管子・大匡(巻十八)から抜粋
桓公管仲を迎え入れました。
桓公が言いました「社稷(国)を安定させることができるか?」
管仲が答えました「主公が覇王となれば社稷は安定します。覇王とならなければ安定しません。」
桓公が言いました「わしはそのような大きな目標を持とうとは思わない。我が社稷を安定させたいだけだ。」
管仲が重ねて同じことを言いましたが、桓公は応じません。
管仲桓公にこう言いました「あなたは臣の死を免じました。これは臣の幸です。しかし臣が公子・糾のために死ななかったのは、天下に覇を称えて社稷を安定させるためです。社稷を安定させることができないのに、公子・糾のために死ぬことなく、斉の政治を行って禄を得るようなことはできません。」
管仲が退席して宮門を出た時、桓公管仲を呼び戻しました。
管仲が戻ると桓公が汗を流して言いました「汝がそう言うのなら、覇業に勉めてみよう。」
管仲は再拝稽首し、立ち上がって言いました「今日、主公が覇業に同意してくださるなら、臣は君命を受けて相の位に立ちましょう。」
 
 
『国語・斉語』から。
桓公管仲に言いました「我が先君・襄公は高台を立てて尊栄を示し、狩猟に明け暮れて国政を顧みず、聖賢を侮辱し士人を侮り、女色にひたって宮中には九妃・六嬪と数百の妾を置いた。しかも食事も衣服も贅沢だった。前線では戎士(戦士)が飢え凍え、戎車(戦車)は遊車(巡遊の車)が破損してから充てられた。戎士が着たり口にする物は宮中の妾が残した物だった。優笑(娯楽をもたらす倡優)が厚遇され、賢材は後ろにされた。その結果、我が国は成長できなくなった。このままでは宗廟を掃除する者もいなくなり、社稷も祭祀を受けることができなくなるだろう。このような状況で我が国はどうすればいいだろうか。」
管仲が答えました「昔、我々の先王である昭王・穆王は文王や武王の遠い功績にならって美名を成しました。我々は老齢の者を集めて民の中で道(徳)のある者を選ばせ、法令を定めて民の行動を規制し、平均かつ公平な政治を用い、制度によって民をまとめ、根本を正してから細部を解決し、賞賜によって善行を奨励し、刑罰によって悪を正し、長幼の序列を定め、民に紀統(規則)を持たせるべきです。」
桓公がその方法を聞くと管仲はこう言いました「昔、聖王が天下を治める時は都城を三つに分け、郊野を五つに分けて民を定住させました。民が生活する場所と、死者を葬る場所を決め、慎重に六柄(生・殺・貧・富・貴・賎を左右する権利)を用いたものです。」
 
桓公が聞きました「どうすれば民の事業を安定させることができるか?」
管仲が答えました「四民(士・農・工・商)を雑居させてはなりません。雑居したら互いに干渉し、様々な言論が生まれるので、職を変える者が出てきます。」
桓公が聞きました「士・農・工・商をどのように分けて生活させればいいのだ?」
管仲が答えました「昔の聖王は士を清静な場所に住ませ、工を官府に住ませ、商を市井に住ませ、農を田野に住ませました。
士人はまとまって生活し、閑静な場所で父と同輩の者は義を語り、子と同輩の者は孝を語り、君に仕える者は敬(恭しく主に仕えること)を語り、幼い者は弟(悌。兄弟の和睦)を語ります。小さい頃からその薫陶を受けているから心が安定し、異なる事象をみて心を動かすことがなかったのです。父兄の教えが催促しなくても行われ、子弟の学問が労することなく成就できたのもそのためです。そのおかげで士の子孫は永遠に士になれました。
工人はまとまって生活し、四時(四季)ごとに必要な物を観察し、質量の好悪を判断し、その用途を理解し、正しく材料を選び、朝から晩まで工作に勉めて四方に製品を普及させ、子弟に制作の方法を教え、互いに経験を語り合い、巧みな技を交流させてその功績を示してきました。だから幼い頃から工作を学んで心を安定させることができたのです。こうして工人の子孫は永遠に工人になりました。
商人はまとまって生活し、四時ごとに必要な物を観察し、その地の資源を熟知し、それによって市場の値打ちを判断しました。商人は荷物を背負ったり担いだり、車や牛、馬を使って四方に物を普及させます。自分が持っている物を使って足りない物を補い、安くなれば買い、高くなったら売ります。朝から晩まで商業に従事し、子弟はそれを学んで利を話し、互いの経験を語り、商業の手段を公開します。だから幼い頃から商業を学んで心を安定させることができたのです。こうして商人の子孫は永遠に商人になりました
農民はまとまって生活し、四時によって必要な農事を見極め、内容によって異なる農具を用います。冬になったら草を除いて田を整え、春の耕作を待ちます。耕作が始まったら、深く土を掘って短い時間で種を植え、雨が降るのを待ちます。雨の季節が過ぎたら鋤等の農具を持って朝から晩まで田野で農事に励みます。作業の時には上衣を脱ぎ、草の帽子をかぶり、蓑を着ますが、全身は泥まみれになり、髪も肌も太陽にさらされます。それでも力を尽くして田野で農事に努めます。彼等は幼い頃からこれを見て育ったので、心を安定させることができたのです。こうして農民の子孫は永遠に農民になりました。農民は郊野に住んでいるため悪質な風紀に触れることがありません。よって優れた民で士になれた者は信用できるのです。このような者を発見しながら報告しない官員がいたら、五刑(死刑と四種類の肉刑)を与えるべきです。官員は必ず優秀な人材を推挙しなければなりません。
 
桓公が聞きました「民が住む場所はどうやって定めればいいのだ?」
管仲は全国を二十一郷に分けることを提案しました。
桓公管仲の意見に同意したため、管仲はさっそく実行しました。工商の郷が六ヶ所(工商各三郷)、士郷(士人と農民の郷)が十五箇所設けられます。一郷は二千家とされ、このうち工商の郷からは兵を出さず、士郷から兵が集められました。五郷の兵を一帥といい、全部で三帥が作られます。
三帥は国君と国子、高子(国氏と高氏。どちらも斉の上卿の家系)が一帥(五郷)ずつ指揮することになりました。
国事は三系統に分けられ、三官が置かれます。農・工・商を監督する田師・器師・市師です。
官員には三宰(三卿。官員の三長)を置き、三族の官を置いて工業を監督させ、三郷の官を置いて商業を監督させ、三虞の官を置いて川沢を監督させ、三衡の官を置いて山林を監督させました
 
桓公が聞きました「諸侯の中で事を起こしたいと思うがどうだ。」
管仲が答えました「まだいけません。国が安定していません。」
桓公が聞きました「どうすれば国を安定させることができるのだ。」
管仲が答えました「旧法を整理し、適切なものを改訂して施行します。それから人口を増やし、貧民を救済し、百姓を敬えば、国は安定します。」
桓公は納得し、法令を整理してから施行しなおしました。
管仲の進言に従い国を安定させます。
 
桓公が言いました「国が安定した。今ならいいか?」
管仲が答えました「まだです。主公が卒伍(軍)を整理し、甲兵(兵器)を整備したとしても、他の大国も卒伍を整理し武器を整備しています。すぐに志を得ることは難しいでしょう。また、主公に攻伐の兵器があるとしても、小国の諸侯にも防御の備えがあります。速やかに志を得ることはできません。もしも主公がすぐに天下諸侯の間で志を得たいのなら、軍事を隠して内政の中で軍政を行うべきです。」
桓公は同意しました。
管仲政令を作りました「五家を一軌とし、一軌に軌長を置く。十軌を一里とし、一里に司を置く。四里を一連とし、一連に連長を置く。十連を一郷とし、一郷に良人を置く。これを元に軍令を発する。一軌の五家はそれぞれ一人の兵を出すこと。五人を伍とし、軌長がそれを率いる。十軌は一里なので、一里は五十人となる。これを小戎とし、里の長である司が率いる。四里は一連なので、二百人の兵となる。連長がこれを率いる。十連が一郷なので二千人となる。これを旅とし、郷良が率いる。五郷を一帥とする。一万人で一軍(師)である。五郷の帥(国君と高氏・国氏)がこれを率いる。こうして全国から三軍が編成され、国君が命令を発する中軍の鼓と国子の鼓、高子の鼓ができる。春は蒐(春の狩猟)の名義で旅(軍)を整理し、秋は獮(秋の狩猟)の名義で兵を訓練する。伍の兵は里の中で編成され、軍(師)・旅は郊外で整理される。内部で命令が定まったら変更してはならない。伍の中で祭祀を行う時は福を共に享受し、死者が出たら共に憐れみ、禍災を共にせよ。人と人が助けあい、家と家が和してつき合い、代々同居し、幼い時から共に遊べ。そうすれば夜戦でも声を聞いただけで間違えることがなく、昼の戦いでも会えば見方かどうかを判断することができる。こうして培われた愉快な心は死ぬまで続く。生活して共に楽しく、行動して共に和し、死んで共に悲しめば、国を守る時には共に堅固になり、戦えば共に勇敢屈強になる。国君にこのような士が三万もいれば、天下を進んで無道を誅し、周室を援けることも可能だ。天下の大国で主君に抵抗する者はいなくなるだろう。


次回に続きます。