春秋時代20 東周釐王(一) 柯の会盟 鄭厲公復位 前681~680年
今回から東周釐王の時代です。
釐王
荘王が死んで子の釐王・胡斉が立ちました。
また、魯の釐公、斉の釐公等も「僖公」に置き換えることができます。
釐王元年
庚子 前681年
遂国が参加しませんでした。遂は虞舜の子孫の国といわれ、嬀姓です。
夏六月、斉が遂国を滅ぼし、戍(守備兵)を置きました。
その後、桓公は軍備を強化して甲士十万、兵車五千を擁するようになりました。
管仲が嘆息して言いました「斉国は危険な状態です。主君が徳を争わず、兵力を競っています。天下で十万の兵を持つ国は珍しくないでしょう。我々が小さい兵力で大きな兵力を服従させようとしたら、国内は民心を失い、諸侯は備えを設け、我々は奸策をめぐらさなければなりません。国家を平穏にするのは無理です。」
桓公は聞き入れず、魯に兵を向けました。
魯荘公が柯での会盟に桓公を誘ってこう伝えました「魯は小国なので剣を帯びずに会盟に臨みましょう。もし剣を持っていたら、双方が交戦状態にあることを諸侯に示してしまうので、貴国も武器を持たずに参加していただきたい。」
桓公が同意しようとすると、管仲が言いました「いけません。諸侯は主君を怨んでいます。主君はこの会盟を断るべきです。もしも会盟を利用して魯から奪った地を我が国の領地と認めさせ、隣国を弱小化したら、諸侯は主君をますます貪婪だと批難するでしょう。今後、小国は強硬に抵抗し、大国も備えを強化してしまいます。会盟は斉国の利益になりません。」
しかし桓公は聞き入れません。管仲がまた言いました「どうしても行くというのなら、武器を持つべきです。曹劌(『史記・刺客列伝(巻八十六)』では「曹沫」)は堅強かつ狡猾なので盟約によって対立を解決するとは思えません。」
桓公はこの諫言にも従いませんでした。
冬、柯で斉桓公と魯荘公が会盟しました。
魯荘公と曹劌は懐に剣を隠しています。斉桓公と魯荘公が祭壇に登ると荘公が剣を出して言いました「魯の国境は国都から五十里しか離れておらず、瀕死の状態である。」
荘公は左手に剣を持って桓公を指し、右手で自分を指して言いました「共に死のう。私があなたの先に死ぬ。」
桓公はこれに同意し、汶水を国境に定めて帰国しました。
この後、桓公は軍事よりも内政を強化し、国境の守りを固めて必要のない出兵を控えるようになりました。
以上、柯の会盟の様子は『管子・大匡(第十八)』を参考にしました。
魯荘公は強力の士を好んだため、曹沫を魯の将に任命しました。しかし曹沫は斉に三敗して逃げ帰ります。恐れた荘公は遂邑の地を斉に譲ることを条件に講和を申し入れました。
斉桓公が講和に同意したため、両国は柯で会盟することになりました。
曹沫が言いました「元々斉は強大で魯は弱小です。大国が魯を侵すのは度が過ぎています。今、魯国の都城が一度崩れたら、その城壁はすぐに斉の国境に達してしまいます。この状況をよくお考えください。」
桓公はそれまでに魯から奪った土地を全て返還することを約束しました。
曹沫は匕首を投げ棄てて祭壇を降り、平然と席に戻りました。
桓公は曹沫を破って魯から奪った土地を全て返還しました。
これを聞いた諸侯は斉を信じて従うようになりました。
『史記・斉太公世家』も『刺客列伝』とほぼ同じ内容を書いています。
しかしこの事件に関して魯国の記録である『春秋』には「冬、魯荘公が斉侯と柯で会盟した(冬、公会斉侯盟于柯)」、『春秋左氏伝』には「冬、柯で会盟した。斉と講和したからである(冬,盟于柯,始及斉平也)」としか書かれていません(どちらも魯荘公十三年)。
楊伯峻の『春秋左伝注』に解釈があるので別の場所で書きます。
[三] この年、杞靖公が在位二十三年で死に、子・共公が立ちました。
釐王二年
辛丑 前680年
[一] 宋が前年の北杏の会盟に背きました。
春、斉・陳・曹が宋を討伐しました。斉は周にも援軍を求めます。
夏、周の大夫・単伯が宋討伐に参加しました。
諸侯は宋と講和して兵を退きました。
[二] 鄭厲公が櫟(桓王二十三年、前697年参照)を出て鄭を攻め、大陵に至って傅瑕(または「甫假」)を捕えました。
傅瑕が言いました「私を釈放したら、あなたを国に入れて国君に立てましょう。」
厲公は傅瑕と盟を結んでから釈放しました。
以前、鄭の南門で門外と門内の蛇が争い、門内の蛇が死にました。その六年後に厲公が国に入りました。それを聞いた魯荘公が申繻に聞きました「妖(妖異・妖怪)によって鄭君は帰ることができたのか?」
申繻が答えました「人が忌み嫌うことは、その人の気・燄(炎)によって遭遇するかどうかが決まります。妖は人によって興ります。人に自覚がなければ妖が生まれ、人が常道を失ったら妖が興り、人はそれに遭遇することになります。(妖が人の将来を決めているのではありません。)」
厲公は国に入ると傅瑕に言いました「汝は国君に仕えながら二心を持った。」
傅瑕は処刑されました。死に臨んで傅瑕はこう言いました「大きな徳を受けながらそれに報いなかったのだから、こうなって当然だ。」
厲公は人を送って原繁にこう伝えました「傅瑕は二心を持っていた。周には常刑がある。だから罪に伏させた。今後、わしを受け入れて二心を持たない者なら、上大夫にすることを約束しよう。わしは伯父(原繁)と国事を図ろうと思うが、寡人(私)が国外にいる間、伯父は情報を送らず、国に入ってもわしと親しくしようとしない。残念なことだ。」
原繁が言いました「先君・桓公は私の先人に宗廟石室の管理を託しました。社稷に主がいるのに心が外にある、これ以上の裏切りがありますか。社稷を掌る者がいたら、国内の民は全てその臣になるものです。臣に二心があってはならない、これは天が定めたことです。子儀は在位して十四年になります。あなたを国に招こうとしていた者を裏切り者ではないと言えますか?荘公の子はまだ八人います。もしそれぞれの公子が官爵を餌にして裏切りを誘い、事を成功させたら、あなたはどうするつもりですか?臣は命(天命)に従います。」
原繁は首を吊って自殺しました。
櫟にいた鄭厲公は人を送って大夫・甫假(傅瑕)を捕えました。甫假が言いました「私を助けるなら、鄭子を殺してあなたを国都に還らせてみせましょう。」
厲公は甫假と盟を結んでから釈放します。
六月甲子(二十日)、甫假が鄭子とその二人の子を殺し、厲公を迎え入れました。
以前、鄭城南門で門内外の蛇が戦い、城内の蛇が死にました。その六年後に厲公が帰還しました。
鄭都に還った厲公が伯父・原(原繁)を責めて言いました「わしは国を失って外に住んでいたが、伯父はわしを迎え入れようとしなかった。」
原が言いました「国君に仕える者は二心があってはなりません。これは臣下としての本分です。私は自分の罪を知っています。」
原は自殺しました。
そこで厲公が甫假に言いました「汝は国君に仕えて二心があった。」
厲公は甫假を処刑しました。死ぬ前に甫假はこう言いました「鄭子に対する大恩に報いなかったからこうなってしまった。当然なことだ。」
[三] 蔡哀侯は莘の役(荘王十三年、前684年)で楚の捕虜になった時、息嬀(息侯の妻)の美貌を楚子(楚文王)に語りました。そこで文王は息国に入り、宴を開いて息侯を誘い、そこを襲って息侯を殺しました。息国が滅ぼされます。
文王は息嬀を奪って帰国しました。
やがて息嬀は二人の子を産みました。熊囏(堵敖。または「杜敖」「荘敖」)と熊惲(後の成王)です。しかし息嬀は話をしようとしません。文王がその理由を聞くと息嬀は「私は一婦人に過ぎませんが、二夫につかえることになりました。これから生きながらえたとしても、何を話すことがあるでしょう」と答えました。
文王は息国を滅ぼした原因が蔡侯にあったため、息嬀の歓心を得るために蔡を攻撃することにしました。
ここまでは以前の出来事です。息がいつ滅ぼされたかははっきりしません。
秋七月、楚軍が蔡に進攻しました。
次回に続きます。