春秋時代21 東周釐王(二) 晋武公 前679~677年

今回で東周釐王の時代が終わります。
 
釐王三年
壬寅 前679
 
[] 春、斉桓公、宋桓公、陳宣侯、衛恵公、鄭厲公が前年に続いて再び鄄で会見しました。
桓公が諸侯に認められて伯(諸侯の長)となり、始めて天下に霸を称えます。
春秋五覇」とよばれる覇者の筆頭が誕生しました。

桓公は頻繁に諸侯と会盟して同盟関係を強化しました。『中国歴代戦争史』を元に作った斉桓公の会盟の地図です。
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史記・楚世家』は斉桓公が始めて覇を称えた頃、楚も強大になり始めたと書いています。
この後、南方で拡大する楚と中原の覇者(斉・晋)による対立が春秋時代を動かしていくことになります。
 
[] 夏、魯桓公の夫人・姜氏(文姜)が斉に入りました。
 
[] 秋、宋・斉・邾が(または「児」)を攻撃しましたが宋に背いたことが原因のようです。
資治通鑑外紀』によると、の子孫の国です。邾西周武王の時代に邾国に封じられました(平王四十九年、前722年参照)。その後、邾挾の子孫・夷父顔が周王室に対して功を立てたため、周王がその庶子・友を附庸としてに住ませたようです。つまり、は邾から生まれた国です。
荘王八年(前689年)国の犂来が魯を訪問しました。この犁来は初代・友の曾孫に当たります。
国は斉桓公に従って周王室を援けるようになりました。後に国は小邾国に改名しました。
 
諸侯が国を攻撃している隙に、鄭が宋を侵しました
 
[四] この年、曲沃の武公が翼の晋侯・緡を攻めて滅ぼしました。武公は宝物を周釐王に献上します。釐王は武公が一軍を率いることを認め、正式に晋侯に立てました。こうして晋の本家が完全に滅び、曲沃によって乗っ取られました。
 
史記・晋世家』『史記・十二諸侯世家』史記・秦本紀』『竹書紀年』(今本)ともこの事件を本年(東周釐王三年、晋侯二十八年、曲沃武公三十七年、秦武公十九年)のこととしていますが、『春秋左氏伝』は翌年に書いています。再述します。
 
 
 
釐王四年
癸卯 前678
 
[] 夏、宋・斉・衛が鄭を攻めました。前年、鄭が宋を攻めたためです。
 
[] 秋、鄭厲公は櫟から国都に帰ってからすぐに楚への報告をしませんでした。
秋、楚が鄭を攻撃して櫟に至りました。
 
[] 鄭厲公が雍糾の乱(東周桓王二十三年、前697年)に関わった者を逮捕しました。
九月、公子・閼を処刑し、強鉏を刖(脚を切断する刑)に処します。二人とも祭仲に協力したためです。
このうち「公子・閼」ですが、東周桓王八年(前712年)に「公孫・閼」という名が登場しました。子都とよばれ、鄭荘公に寵愛された人物です。「公孫」の後の世代に同名の「公子」が登場するのは不自然と思われるので、「公子」は「公孫」の誤りかもしれません。
公父・定叔(共叔・段の孫。公孫・滑の子。共叔・段は平王四十九年、前722年参照)は衛に出奔します。
 
三年後、厲公が公父・定叔に言いました「共叔の子孫が鄭で俸禄を受けないわけにはいかない。」
厲公はその年の十月に公父・定叔を国に帰らせ、こう言いました「十月は良月だ(奇数の月は忌月、偶数の月は良月といわれていました)。十は満ちる数である。」
 
[] 冬十二月、斉侯桓公、魯公(荘公)、宋公桓公、陳侯(宣侯)、衛侯(恵公)、鄭伯(厲公)、許男、滑伯、滕子が幽で会盟しました。鄭との講和が目的です。
 
『竹書紀年』(今本)にはこの年に「晋は斉桓公の盟に参加しなかった」とあります。幽の会盟を書いているのだと思われます。
 
[] 邾子・克が死に、子の瑣が立ちました。
 
[] 『春秋左氏伝』はこの年に「周釐王が虢公を派遣し、曲沃伯(武公)に一軍を指揮させて晋侯に立てた」と書いており、『史記』等の記述と異なることは前年書きました。
 
資治通鑑外紀』は『史記』と『春秋左氏伝』の記述を合わせてこう書いています。
釐王三年(前年)曲沃伯(武公)が晋侯・緡を攻めて滅ぼし、宝物を周に献上し、再び絳を都とした。
釐王四年(本年)、冬、王が虢公を送って曲沃伯に命を下し、一軍を率いさせ、晋侯として諸侯に立てた。
資治通鑑前編』もほぼ同じ内容です。
 
[] 以前、晋武公が夷(采邑の名)を攻撃して周の大夫・夷詭諸を捕えました。周大夫・蔿国(子国)が夷詭諸の釈放を求めたため、晋武公はそれに応じます。
ところが釈放された夷詭諸は蔿国に礼をしませんでした。怒った蔿国は周で乱を起こし、晋にこう伝えました「私と共に夷を討ってその地を取りましょう。」
蔿国は晋師を率いて夷を攻め、夷詭諸を殺しました。
周公・忌父(周の卿士)は虢国に出奔しました。
翌年、周恵王が即位して周公・忌父を周の卿士に戻しました。
 
[] この年、秦武公が在位二十年で死に、雍の平陽に埋葬されました。秦で初めて殉葬が行われ、六十六人が殉死しました。
武公には子が一人おり白という名でしたが、白は即位せず平陽に封じられました。
武公の弟・徳公が即位しました。
 
[] 楚が鄧国を滅ぼしました(東周荘王九年、前688年参照)
 
 
 
釐王五年
甲辰 前677
 
[] 春、鄭が斉に入朝しなかったため、斉が鄭詹(または「瞻」。恐らく厲公の子・叔詹)を捕えました。
 
[] 秦徳公元年、雍の地に住むことを卜うと、「雍に定住すれば子孫が繁栄し、東方に発展して黄河の水で馬を養うことになるだろう」と出ました。
徳公は平陽から雍城の大鄭宮に遷り、三百牢の犠牲を用いて鄜畤で上帝を祀りました。
雍の諸祠の祭祀はここから始まります。
 
梁伯(嬴姓)と芮伯(姫姓)が秦に来朝しました。
 
[] 夏、遂国(釐王元年、前681年に斉に滅ぼされました)の強家だった因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏が斉の戍(守備兵)を宴に招き、酔ったところを襲って殺しました。
斉は因氏等の四氏を全滅させました。
 
[] 秋、鄭詹が斉から魯に逃走しました。
 
[] 冬、魯で麋(鹿に似た動物)が多く現れ、被害が出ました。
 
[] この年、晋武公が死に、子の詭諸が立ちました。これを献公といいます。
武公の在位年数は曲沃時代から合わせると三十九年、晋侯としては二年になります。
 
[] 東周釐王が死にました。子・恵王・閬(または「毋涼」。『帝王世家』では「涼洪」)が立ちました。
 
『帝王世紀』には「僖王(釐王)は文王・武王の制度を改変し、華麗な装飾を作り、宮殿は高く、車馬は豪奢だったため、孔子が誹った」とあります。
これは『孔子家語・六本(第十五)』に書かれている内容の抜粋です。
春秋時代末期、孔子が斉にいる時、斉景公の近臣が「周の使者が訪れました。先王の廟で火災があったとのことです」と報告しました。
それを聞いて孔子が景公に言いました「それは釐王の廟でしょう。」
景王がその理由を聞くと、孔子は釐王が文王・武王の制度を変え、贅沢を尽くしていたことを述べ、こう言いました「天がその廟に禍を加えたのです。」
景公が聞きました「なぜ天は王本人ではなく、廟に罰を加えたのだ。」
孔子が答えました「それは文王・武王のためでしょう。もしも釐王本人に禍を与えたら文王・武王の後嗣が途絶えることになります。だからその廟に禍を与えてその過ちを天下に示したのです。」
暫くして近臣が報告しました「火災があったのは釐王の廟です。」
景公は驚いて立ち上がり、孔子を再拝して「聖人の智とは、常人を遥かに超えたものだ」と言いました。
 
[] 『史記・楚世家』『史記・十二諸侯世家』はこの年に楚文王が在位十三年で死に、子の熊囏が立ったとしています。しかし『春秋左氏伝(荘公十九年)』は楚文王の死を東周恵王二年(楚文王十五年、前675年)としており、楊伯峻の『春秋左伝注』は恐らく『史記』が誤りと注釈しています。
資治通鑑前編』は『史記』に従い、『資治通鑑外紀』は『春秋左氏伝』に従っています。



次回から東周恵王の時代です。

春秋時代22 東周恵王(一) 楚文王の死 周の内乱 前676~675年