春秋時代23 東周恵王(二) 恵王復位 前674~673年
今回も東周恵王の時代です。
恵王三年 王頽元年
丁未 前674年
[二] 鄭厲公が王室の内乱を仲裁しようとしましたが失敗しました。恵王は京師を逐われて出奔中です。
夏、鄭厲公が周恵王を連れて鄭に還り、恵王を櫟に住ませました。
[三] 夏、斉で大災(大火災)がありました。
[四] 秋、恵王と鄭厲公が鄔に入りました。その後、成周(王城の東)に進攻して宝器を奪い、兵を還しました。
『竹書紀年』(古本・今本)には「多くの鄭人が王府に入って玉を奪った。すると玉は蜮になり、人を射た」と書かれています。恐らくこの時の事だと思います。但し、『竹書紀年』は古本・今本とも前年(晋献公二年、東周恵王二年)に書いています。
「蜮」というのは伝説の怪虫で、『捜神記』『太平御覧』『太平広記』等に記述がみられます。
『捜神記(巻十二)』によると、蜮は長江に住む動物で、「短狐」ともよばれました。蜮は沙を人に向けて放つことができ、その砂に中った者は筋肉が硬直し、頭痛発熱の症状が現れ、ひどい場合は死に至ったといいます。長江沿岸では方術によって治療し、体の肉の中から沙を取り除きました。民間では「溪毒」ともよばれています。一説では男女が川で一緒に水浴びをすると、淫女(淫乱な女性)が勝って気を乱し、このような妖物を生みだすとされています。
尚、恵王元年(前676年)に魯で蜮の害がありましたが、この「蜮」は妖物ではなく、害虫の一種を指すと思われます。
[四] 冬、斉が戎を攻撃しました。
[五] 周王となった頽が五大夫をもてなして宴を開き、楽を奏でてあらゆる舞を見せました。
それを聞いた鄭厲公が虢叔(虢公)に言いました「哀と楽が時を失ったら必ず禍が到るという。王子頽は歌舞に飽きることなく、禍難を喜んでいる。司寇が人を殺したら、主君は楽舞を廃して食事を減らすものだ。禍難の中にあるのに喜んでいいはずがない。そもそも王位簒奪よりも大きな禍はない。禍に臨んで憂いを忘れたら、必ず大きな憂いが訪れる。王(恵王)を朝廷に入れることができるはずだ。」
虢公が言いました「それは寡人(私)の願いだ。」
鄭厲公と虢公は恵王復位の計画を練りました。
恵王四年 王頽二年
戊申 前673年
[一] 春、鄭厲公と虢公が弭で会見しました。
夏、鄭と虢が王城を攻撃しました。鄭厲公が恵王と共に圉門(南門)から入り、虢叔が北門から入ります。
王子頽と五大夫は殺され、恵王が復位します。
鄭厲公が宮門西闕で宴を開き、恵王を招いてあらゆる楽舞を催しました。恵王は虎牢以東の鄭武公時代の領地を全て鄭に与えました。
原伯(原荘公。周の卿士)が言いました「鄭伯は五大夫の悪い部分を真似した。咎から免れることはできないだろう。」
夏五月辛酉(二十七日)、鄭厲公が死にました。厲公の復位(釐王二年、前680年参照)後の在位年数は七年です。子の文公・捷(または「踕」)が継ぎました。
恵王が虢公の守る地を巡視しました。虢公が玤(虢地)に王宮を建てたため、恵王は虢に酒泉(周邑)を与えました。
鄭厲公が恵王を宴に招いた時、恵王は王后の鞶鑑(「鞶」は大帯で「鑑」は鏡。もしくは「鞶鑑」で銅鏡の意味)を厲公に下賜しました。
後に虢公も宝器を求め、恵王は爵(酒器)を与えました。爵の方が鞶鑑より高価だったため、鄭文公は周恵王を怨むようになりました。
[三] 冬、恵王が虢から還りました。
[四] 冬十二月、鄭が厲公を埋葬しました。
[五] この年、杞共公が在位八年で死に、子の徳公(または「恵公」)が立ちました。
次回に続きます。