春秋時代26 東周恵王(五) 魯荘公 前671~670年

今回も東周恵王の時代です。
 
恵王六年
庚戍 前671
 
[] 春、魯荘公が斉から帰国しました。
 
[] 周恵王の臣・祭叔が魯に来聘しました。
 
[] 夏、魯荘公が斉に入って社を観ました。社というのは社神の祭祀のことです。民衆は祭祀を利用して男女が出会い、娯楽の時としていました。
荘公が出発する時に曹劌が諫めて言いました「礼に合いません。礼とは民を整えるためにあります。だから諸侯の会(会見・会盟)は上下の法則を訓示し、財物の基準を設けて節約するものです。朝(朝覲)爵位の儀を正して長幼の序(諸侯の序列)に則るものです。征伐とは命に従わない者を討つものです。諸侯は王を聘問し(これを「有王」といいます)、王は四方を巡視し(これを「巡狩」といいます)、これらの決まりを普遍なものとさせるのです。君王はこれら(会・朝・征伐・有王・巡狩)に関係なければ行動せず、君王が行動したら必ず史官によって記録されるものです。記録されたら事が法(礼)に合わなかったら、後世はそれをどう見るでしょうか。」
荘公は諫言を聞かず、斉に行って社の祭祀を観察してから帰国しました。
以上、『春秋左氏伝(荘公二十三年)』を元にしました。
 
『国語・魯語上』にもこの話がありますが、曹劌の諫言の内容が異なります。
以下、『国語』からです。
曹劌が言いました「いけません。礼とは民を正すためにあります。だから先王は諸侯の制度を設け、五年に四回は使者を送って王を聘問させ、一回は諸侯自ら朝見させることにしました。朝見が終わったら共に礼を学んで爵位の義(尊卑)を正し、長幼の序を守り、上下の法則を訓示し、財物(貢物)の基準を設け、朝会の間に儀礼が廃れることをなくしたのです。今、斉は太公太公望呂尚の決まりを棄てて社の祭祀で民を観ようとしています。そして我が君もそれに参加しようとしています。これは前例のない事です。今後どうやって民を訓導するつもりですか。土発春分に社を祀るのは農業の始めを祝うためです。収穫の後に蒸(冬の祭祀)を行うのは穀物を神に捧げるためです。しかし今、斉の社は民衆を眺めるためのものとなりました。これは先王の教えではありません。天子が上帝を祀る時、諸侯はそれに参加して命を受けるものです。諸侯が先王・先公を祀る時、卿大夫はそれを補佐して任務を与えられるものです。諸侯が互いに祭祀を観察するとは聞いたことがなく、そのような祭祀は法度に合いません。国君の行動は全て記録されるものです。記録された内容が法度に合っていなかったら、後嗣はそれをどう見ればいいのでしょうか?」
荘公は諫言を聞かず、斉に入りました。
 
[] 荊人(楚人)が魯を聘問しました。楚と魯の国交が始まります。
この年は楚成王元年にあたります。
成王は即位すると徳政を行って民に恩恵を施し、諸侯との関係を改善していきました。周王室にも使者を派遣して貢物を贈ります。東周恵王は楚に胙(祭祀で用いる肉)を下賜し、「汝の南方に位置する夷越の混乱を鎮めよ。中国(中原)を侵してはならない」と伝えました。
楚の地は千里に拡がりました。
 
[] 魯荘公と斉桓公が穀(斉地)で会いました。
 
[] 䔥叔が魯荘公を朝見しました。䔥は宋の附属国です。
 
[] 晋で桓叔と荘伯(曲沃時代の主君。桓叔は献公の曽祖父、荘伯は祖父)の子孫・諸公子が強盛になり、献公に近い公族を凌駕し始めました。献公はこれを憂います。そこで大夫・士蔿が言いました「富子(桓叔と荘伯の子孫で智謀のある者)を除くには、群公子(諸公子)と謀るべきです。」
献公は「汝が試してみよ」と言いました。
士蔿は群公子の前で富子の讒言を繰り返し、ついに協力して富子を排斥することができました。
 
[] 秋、魯荘公が桓宮桓公の廟)の楹(柱)を赤く塗りました。これは礼に背くことでした。翌年に書きます。
 
[] 冬十一月、曹荘公・射姑(または「夕姑」)が在位三十一年で死に、子の釐公(僖公)・夷が継ぎました。これは『史記・管蔡世家(曹世家附)』の記述です。釐公の即位は翌年にも触れます。
 
[] 十二月甲寅(初五日)、魯荘公が斉桓公と扈(恐らく斉地)で会盟しました。
 
 
 
恵王七年
辛亥 前670
 
[] 春三月、魯荘公が桓宮桓公の廟)の桷(椽木)に彫刻を施しました。
前年秋に桓宮の楹を赤く塗った事と、今回、桷に彫刻を施したことは、諸侯の礼から越えたことでした。
大夫・御孫(『国語』では匠師・慶)が諫めて言いました「倹(倹約)とは徳の中で最も大きく、侈(奢侈)とは悪の中で最大のものだと言います。先君には大きな徳がありましたが、主君は様々な大悪を入れています。これでいいはずがありません。」
以上は『春秋左氏伝(荘公二十四年)』の記述です。
 
『国語・魯語上』はもう少し詳しく書いています。
匠師・慶が荘公に言いました「賢聖な王公で創業した者(商成湯、周武王、魯周公、斉太公等)は後世に規則を残し、人々が悪に陥らないようにしました。そのおかげで後世の者は先人の美名を顕揚し、その教訓を受け継いで長く維持することができました。しかし今、先君が倹約であったのに主公は奢侈を追求して先君の徳を失わせてしまいました。」
荘公が言いました「わしは先君の廟を美しくすることでその徳を明らかにしたいだけだ。」
匠師・慶が言いました「それは主公にとって益がなく、先君の倹約の美徳も損なうことになります。中止するべきです。」
荘公は諫言を聞き入れませんでした。
 
[] 曹が前年死んだ荘公を埋葬しました。
 
[] 夏、魯荘公が斉と婚姻関係を結ぶことになりました。斉女を迎えるため、荘公が斉に行きました。
 
秋八月丁丑(初二日)、荘公と夫人・姜氏(哀姜)が魯に入りました。
戊寅(初三日)、荘公が大夫宗婦(同姓の大夫の夫人)に命じ、幣(帛)を婚姻の礼物として哀姜に贈らせました。
御孫(『国語』では夏父展。上述の御孫とは別人のようです)が諫めて言いました「男が礼物とするのは、大きければ玉帛、小さければ禽鳥であり、物によって貴賎を表します。女が贈るのは榛(樹木の名)・栗・棗・脩(乾肉)を超えることなく、誠敬を表します。今、男女が贈る物が同じであるのは、男女の別(差)がなくなることです。男女の別は国の大節です。夫人のためにこれを乱すのは、ふさわしくありません。」
以上、『春秋左氏伝』の記述です。
 
『国語・魯語上』はもう少し詳しく書いています。
宗人(男女の幣礼を掌る宗伯)・夏父展(御孫。夏父は姓、展は名)が荘公に「これは先王の制度に合いません」と言うと、荘公は「国君が行うことこそが制度だ」と答えました。
夏父展が言いました「国君が行い、しかもそれが礼に則っていたら制度ということができます。しかし礼に背いていたら、史書に『逆(礼に逆らうこと)』と書かれます。臣は宗人として主君の逆が史書に残されることを恐れるので、敢えて諫言します。婦人の贄(礼物)は棗、栗に過ぎず、誠虔を表します。これに対して男は玉・帛・禽・鳥を贈って貴賎を表します。今、婦人が幣(帛布)を贈り、男女の別がなくなりました。男女の別は国の大節です。これを失ってはなりません。」
荘公は聞き入れませんでした。
 
[] 魯で大水(洪水)がありました。
 
[] 『後漢書・西羌伝(巻八十七)』によると、当時は戎が中原に進入して諸夏(中原諸国)と会盟を行うようになりました。尹水や洛水の戎は特に強大で、しばしば曹国や魯国を侵しました。
 
以下、『春秋』の記述です。
「冬、戎が曹を侵した。曹羈は陳に出奔した。赤が曹に帰った。」
 
曹羈は曹の国君、大夫、または世子(太子)といわれています。戎の攻撃を受けて陳に奔ったようです。
「赤が曹に帰った(赤帰于曹)」の意味が理解困難です。以下、『春秋左伝注』(楊伯峻)の解説を紹介します。
「賈逵東漢から曹魏時代の政治家)の解釈では『赤は戎の外孫だったため、曹君だった羈を駆逐して、赤を即位させた』としており、杜注西晋時代・杜預による注釈)は『赤は曹の僖公の名である』と書いている。但し、『史記・管蔡世家(曹世家附)』『史記・十二諸侯年表』とも釐公(僖公)の名は夷と書かれている。」
 
史記・管蔡世家』には曹が戎に攻撃されて国君が代わったという記述はなく、「荘公二十三年に斉桓公が始めて覇を称え、三十一年、荘公が死に、子の釐公・夷が立った」としか書かれていません。
桓公が始めて覇を称えたのは東周釐王三年(前679年)で、荘公が死んだという二十三年は釐王六年(釐王671年、前年参照)にあたるので、一年の差があります。
前年、曹荘公が死に、太子・曹羈が即位しましたが、本年、公子・赤を擁する戎の攻撃を受けて曹羈は出奔し、赤が即位したと考えられます。その場合、『春秋左伝注』が書くように釐公の名は「赤」になります。『史記』が釐公の名を「夷」としているのは、「戎」によって立てられた国君だったからかもしれません。
 
[] 『春秋』にはこの年最後に「郭公」という二文字がありますが、何を意味するのか分かりません。文の一部が失われているようです。
『春秋穀梁伝』『春秋公羊伝』は前の内容である「赤帰于曹」と繋げて「赤帰于曹郭公」と読み、郭公(郭国の主)の名が赤で、国を失ったため曹に奔ったと解釈しています。『春秋左氏伝』は「郭公」について触れず、楊伯峻の注釈は『穀梁伝』と『公羊伝』の解釈は曲説であり通じないと判断しています。
 
[] この年、晋の士蔿が群公子と謀り、游氏の二子を殺させました。游子も桓叔・荘伯の一族です。
士蔿が献公に言いました「二年も経たずに主君の患憂はなくなるはずです。」



次回に続きます。