春秋時代27 東周恵王(六) 晋の粛清 前669~667年

今回も東周恵王の時代です。
 
恵王八年
壬子 前669
 
[] 春、陳宣公が女叔を魯に送って聘問しました。女叔は陳の卿で、女は氏、叔は字です。
魯と陳の正式な国交はここから始まるようです。
 
[] 夏五月癸丑(十二日)、衛恵公が在位三十一年で死に、子の懿公・赤が立ちました。
 
[] 六月辛未朔、日食がありました。
魯荘公が鼓を敲き、牲を用いて社(土地神)を祭りました。
日食が原因で社の祭祀を行う場合、魯は牲ではなく幣(帛)を用いる決まりでした。また、鼓を敲くのも周王朝の朝庭において許されていたことだったため、荘公の祭祀は礼から外れたものでした。
 
[] 魯の伯姫が杞成公に嫁ぎました。伯姫は魯荘公の長女のようです。
 
[] 秋、魯で大水(洪水)がありました。
魯荘公が鼓を敲き、牲を用いて社(土地神)と門(城門の神)を祭りました。
天災が起きた時に牲を用いるのは天子の礼で、魯は幣を用いることになっていました。また、鼓を打つのは日食か月食の時の儀式だったため、これも礼から外れていました。
 
[] 冬、魯の公子・友が陳に入りました。春に陳が女叔を送って聘問したため、その答礼です。
公子・友は桓公の幼子で荘公の弟にあたります。季友とよばれます。「季」は末子の意味です。
 
[] この年、晋の士蔿が群公子(諸公子)を使って游氏(曲沃時代の桓叔と荘伯の後裔)の一族を全滅させました。
その後、聚という場所に城を築き、群公子を集めてそこに住ませました。
冬、晋献公が聚を包囲して群公子を殺しました
 
以上は『春秋左氏伝(荘公二十六年)』の記述です。『史記・晋世家』にはこうあります。
晋の大夫・蔿が献に言いました「晋には公子が多いので、滅しなければ乱が起きます。」
献公は諸公子を皆殺しにしました。
また、晋の邑・に築城して命名しました。ここからが晋の都になりました(翌年述べます)


 
恵王九年
癸丑 前668
 
[] 春、晋が士蔿を大司空に任命しました。
 
[] 魯荘公が戎を討ちました。
 
夏、荘公が戎討伐から還りました。
 
[] 晋の士蔿が晋都・絳の城壁を高くしました。
また、宮城の壁を高くしました。
史記・晋世家』は晋献公八年(前年)に「始めて絳を都とした」と書き、『史記・十二諸侯年表』は晋献公九年(本年)に「始めて絳に城を築いた」としています。
しかし『水経注(巻六)』には「晋穆侯が絳に都を遷し、孫の孝侯が絳を翼に改名した。翼は晋の旧都である。後に献公がその城を北に広げ、その面積は方二里に及んだ。改めて絳と命名した」とあります。つまり晋都・翼と絳は同じ場所を指すということになります。
よって、『晋世家』の「始めて都とした」という記述は誤りで、『十二諸侯年表』の「始めて城を築いた」という内容も、「城を修築拡大した」としたほうが正しいようです。
但し、晋の都・絳の場所については諸説があります。ここでは『春秋左伝注』(楊伯峻)を参考にしました。
 
[] 曹が大夫を殺しました。
これは『春秋』の記述です(原文「曹殺其大夫」)。これだけの記述しかないので、具体的に何があったのかは分かりません。
 
[] 秋、魯荘公が宋・斉と合流し、徐を攻撃しました。徐は嬴姓の国です。
 
[] 晋で生き残った公子が虢に亡命しました。虢は公子達のために晋を侵しました。
 
[] 冬十二月癸亥朔、日食がありました。
 
[] 虢が再び晋を侵しました。
 
 
 
恵王十年
甲寅 前667
 
[] 春、魯荘公が(魯地)杞の伯姫(杞成公の夫人。荘公の長女)と会いました
 
[] 夏六月、斉桓公が魯荘公、宋桓公、陳宣公、鄭文公と幽で会盟しました。陳と鄭が斉に服したため行われた会盟です。
 
[] 秋、魯の公子・友(季友)が陳に入り、陳の大夫・原仲の葬儀に参加しました。原仲は公子・友の友人です。
当時は君命がなければ国境を越えてはならないものでした。私的な関係で陳に行った公子・友の行為は非礼とされました。
 
[] 冬、杞に嫁いだ伯姫が魯に来ました
 
[] 莒の大夫・慶が魯荘公の娘・叔姫を娶ることになりました。慶が叔姫を迎えるため魯に来ました
 
[] 杞伯が魯に来朝しました。
 
[] 魯荘公が城濮(衛地)で斉桓公と会見しました。
 
[] 晋献公が虢を攻撃しようとしましたが、士蔿が反対して言いました「虢公は驕慢なので度々我が国に勝てば(前年、二回晋を侵しました)驕って民を棄てるでしょう。民衆がいなければ我々が攻撃をした時、防ごうと思っても従う者がいません。礼・楽・慈・愛は戦の前に必要なことです。民は讓事(謙譲)、楽和(和睦)、愛親(親族への愛情)、哀喪(葬事での哀痛)があって始めて用いることができます。虢はこれらを軽視しているので、今のように戦を繰り返していたら民心を失います。こちらから攻撃することはありません。」
 
[] 東周恵王が卿士の召伯・廖(召康公の子孫)を斉に送り、桓公に王命を下して伯(諸侯の長。覇者)としました。また、衛が子頽を匿っているため、衛討伐を要求しました。
こうして斉桓公が周王室から正式に伯としての地位を認められました。
資治通鑑外紀』はここで桓公に関する故事をいくつか紹介しています。別の場所に書きます。

覇者 斉桓公(一)

覇者 斉桓公(二)

 
 
 
次回に続きます。