春秋時代 覇者 斉桓公(一)

桓公が周王室から正式に覇者の地位を認められました。

春秋時代27 東周恵王(六) 晋の粛清 前669~667年


資治通鑑外紀』が斉桓公に関する故事をいくつか紹介しています。以下、二回に分けて列記します。
 
『管子・覇形(第二十二)から
桓公が言いました「寡人(私)に仲父管仲がいるのは、飛鴻が翼を持っているようなものであり、大きな川で舟楫(舟)があるようなものだ。仲父の教えが一言もなかったら、寡人に耳があっても治世の道を聞いて法度を得ることはできなかっただろう。」
管仲が言いました「主公が霸王の大事を挙げたいとお考えなら、本(根本)を疎かにしてはなりません。」
桓公席から下りて拱手の礼をしてから管仲に問いました「本とは何か?」
管仲が答えました「斉国の百姓は主公の本です。人は飢えを心配するものですが、今の税は重すぎます。人は死を恐れるものですが、今の刑罰は重すぎます。人は労働を嫌うものですが、今は国の事業に期限がありません。税を軽くすれば人は飢えを心配することなく、刑を軽くすれば人は死を恐れることなく、事を起こすのに時間の制限を設ければ人は労働を厭わなくなります。」
桓公が言いました「寡人は仲父から三つの事を聞いた。しかし寡人が勝手に実行することはできない。先君に報告してから正式に実施しよう(簡単に実行するのではなく、先祖に報告して国の大事として徹底させようという意味です)。」
桓公は百官に命じて竹木を削らせ(当時は紙がないので竹や木を削って文字を書きました)、墨や筆を用意させました。
翌日、桓公と百官が太廟の門に集まりました。桓公が百官に命を下します。
この後、税は百一鐘(百石の穀物から一鐘の税を取ること。鐘は六斛四斗)とし、孤幼(孤児や子供。または幼い孤児)には刑を与えず(死刑にせず)、川沢を開放する時間を固定し、関所では通る者を確認するだけで税を取らず、市では登記させるだけで賦税をかけないと決めました。
数年後には民が流れる水のように自然に帰心するようになりました
 
『管子・大匡(第十八)は税に関して若干異なる記述をしています。
桓公が即位して十九年目(東周恵王十年、前667年)、関市の税を軽減し、五十分の一を取ることにしました。賦(田地の税)穀物の量で計算し、田地の好悪によって取れ高を変えました。納税は二年に一回とし、上年(豊作)なら収穫の十分の三、中年は十分の二、下年は十分の一、不作の年は税を取らず、収穫ができるようになってから納めさせることにしました
 
 
『管子・戒(第二十六)から
桓公が東游を考え、管仲に言いました「わしは各地を巡遊して南の琅邪に至ろうと思うが、司馬は先王の游に習うべきだと言った。先王の游とは何だ?」
管仲が答えました「先王の游には『游』『夕』『亡』『荒』があります。春の外出では農事を始めるにあたって問題となることを調査します。これが『游』です。秋の外出では人々の不足を補います。これが『夕』です。巡遊して民の食を消費することを『亡』といい、巡遊を楽しんで還らなくなることを『荒』といいます。先王は人に対して『游』『夕』を行い、自分自身は『荒』『亡』に陥ることがありませんでした。」
桓公が拝礼して言いました「これは宝法(貴重なきまり)である。」
管仲桓公に言いました「翼がなくても飛ぶことができるのは声です。根がなくても堅く安定しているのは情(感情)です。地位がなくても尊貴なのは生(心。さが)です。よって公は情を安定させ、声(言葉)を慎重にし、生を尊ばなければなりません。この状態を『道之栄(道の発揚)』といいます。」
桓公が再拝すると管仲が続けました「負担が最も大きいのは体です。危険が最も多いのは口です。最も長く続くのは(時間)です。体のように重任に堪え、口のように危険な場所を進み、それを年のように遠く長く続ける。これは立派な君子だけができることです。」
 
 
『管子・小問(第五十一)から
桓公がどのように民を治めるべきか管仲に聞きました。管仲が答えました「民を治める者は、民の疾(苦しみ)を知ること、徳恵を広く施すこと、刑罰で民を恐れさせないこと、力によって強制しないこと、この四点が必要です。これらができれば民を治めることができます。」
 
 
『説苑・貴徳(第五)から
桓公が平陵に行った時、一人で生活している老人を見つけました。桓公がなぜ一人でいるのかを聞くと、老人はこう答えました「私には九人の子がいますが、家が貧しいため結婚ができません。また、彼等を外に働きに出しましたが、帰ってきません。」
桓公は五人の外御(侍女?)を選んで老人の子に嫁がせました。
管仲桓公に言いました「公が施す恩恵は、小さいものであってはなりません。公は貧しい老人をみて恵みを施しましたが、斉国で妻を持つ者は少数です(何人に施しを与えるおつもりですか)。」
桓公が「ではどうすればいいのだ?」と聞くと、管仲はこう答えました「国内に令を発し、丈夫(男)は三十で室(妻)をもたせ、女子は十五で嫁がせるべきです。」
 
同じような話が韓非子・外儲説右下(第三十五)にあります。
桓公が外出した時、一人で生活している老人を見つけました。桓公がその理由を問うと、老人はこう言いました「私には三人の子がいますが、貧しいため妻を娶ることができません。また、外に働きに出たまま帰ってきません。」
桓公が宮中に帰って管仲にこの話をすると、管仲はこう言いました「朝廷には腐るほどの財物があるのに、民は飢えに苦しんでいます。宮中には年頃なのに結婚の機会がない女子がたくさんいますが、民は妻を娶ることができません。」
桓公は宮中から未婚の女子を出して結婚させ、民衆に「丈夫は二十で室をもち、婦人は十五で嫁げ」と命じました。
 
韓非子・外儲説右下』はもう一つの説を紹介しています。
桓公管仲に「年老いても妻がいない者はいるか?」と問うと、管仲は「鹿門稷という者は七十歳なのに妻がいません」と答えました。
桓公が聞きました「どうすれば彼のような者が妻をもつことができるか?」
管仲が言いました「主君は財物を蓄えていますが、下にいる臣民は困窮しています。宮中には成人しても結婚できない女子が大勢います。だから年老いても妻をもてない民が生まれるのです。」
桓公は納得し、宮中で寵幸を受けていない女子を外に出して結婚させました。また、国民に対して男は二十歳、女は十五歳で結婚するように命じました。
こうして宮中には結婚できない女子がいなくなり、宮外では成人しても妻をもたない男がいなくなりました。
 
『説苑』は男が結婚する年を三十歳とし、『韓非子』は二十歳としています。『礼記・内則』に「(男子は)二十で冠する(成人すること。「二十而冠」)」「三十で室を有する(三十而有室)」とあるので、『説苑』の三十歳が正しいとも思えますが、戦乱の春秋時代なので二十歳で結婚するように奨励したのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。

覇者 斉桓公(二)