春秋時代28 東周恵王(七) 晋太子・申生 前666年(1)

今回は東周恵王十一年です。二回に分けます。
 
恵王十一年
乙卯 前666
 
[] 春三月甲寅(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時三月に甲寅の日はありません)、斉が衛を討伐しました。前年、東周恵王が斉桓公に命じたためです。
衛が敗戦しました。
斉は王命を名義に衛の罪を譴責し、財物を得て兵を還しました。
 
[] 晋献公はかつて賈国(姫姓)から妻を娶りましたが、子ができませんでした。
後に斉姜(斉女)との間に一女一男が産まれました。秦穆公の夫人となる女性と太子の申生です。しかし斉姜は早世しました。この斉姜に関して、『春秋左氏伝(荘公二十八年)』は献公が斉姜と姦通したと書き、杜注西晋・杜預による『春秋左氏伝』の注釈)には、斉姜は武公(献公の父)の妾だったと説明されています。しかし『史記・晋世家』では、斉姜を斉桓公の娘としており、武公の妾だったという記述も、献公が姦通したという記述もありません。どちらが正しいかは不明です。
なお、申生には同母妹(または姉)がいました。秦穆公の夫人になります(東周恵王二十一年・656年参照)


献公は戎(翟)の狐氏からも二人の女性を娶りました。大戎狐姫は公子・重耳を産み、小戎子は公子・夷吾を産みます。
更に晋が驪戎を攻撃した時、驪戎男(男爵)は驪姫とその妹を献公に送りました(東周恵王五年、前672年参照)。驪姫は奚斉を産み、驪姫の妹も献公に嫁いで卓子を産みました。
献公にはこの他の子も合わせて全部で八子ができましたが、そのうち申生、重耳、夷吾は賢才がありました。
 
驪姫は献公の寵愛を受けてから、自分の子を太子に立てたいと思うようになりました。
公には施という優(芸を行う者)がおり、驪姫と私通していました。ある日、驪姫が優施に問いました「私は大事を成したいと思っていますが、三公子申生、重耳、夷吾)(一党)がいるので動けません。どうすればいいでしょう。」
優施が答えました「早く彼等の地位を固め、彼等の地位が既に頂点に達したことを知らせるべきです。人は自分の地位が極まったと知ったら、それ以上のことを思わないものです。たとえ欲をもったとしても、簡単に失敗します。」
驪姫が言いました「誰から始めればいいでしょう。」
優施が答えました「申生です。彼は慎重かつ清潔で、しかも年長者で穏重です。また、人を害すこともできません。精潔な者は辱めを受けやすく、穏重すぎて敏捷さに欠ける者は欠点を探しやすく、人を害することができない者は必ず自分を害すことになります。最近の彼の行動を利用して辱めればいいでしょう。」
驪姫が言いました「穏重な者は動かしにくいのではないのですか。」
優施が言いました「羞恥を知っている者でなければ、辱めることはできません。辱めることができれば動かすこともできます。また、もしも羞恥を知らないようなら、自分の考えを堅持することもできないはずなので、容易に動かすことができます。今、あなたは国君の寵愛を受けているので、あなたが善悪を語ったら国君は必ず信じます。あなたが外見上は太子に善くしながら内で辱めたら(讒言したら)、必ず彼を動かすことができます。過度に精明な者は愚者に近くなるといいます。精明な者は容易に辱めを受けながら、愚かにも難を避けることができないものです。」
驪姫は申生と親しく接しているように見せながら、献公に対して申生の欠点を述べるようになりました
 
驪姫は献公の外嬖(男寵)・梁五と東関嬖五(東関五)に賄賂を贈り、献公にこう言わせました「曲沃は国君の宗邑(宗廟がある場所)であり、蒲と二屈(北屈・南屈)は国君の国境です。それらの地に主がいないわけにはいきません。宗邑に主がいなければ民は威信を恐れることなく、国境に主が居なければ戎の野心を引き起こすことになります。戎に野心が生まれたら民は政令を軽視し、国の憂患となります。もし太子が曲沃を守り、重耳と夷吾が蒲と屈を守れば、民に威信を示し、戎を恐れさせ、国君の功績を高揚することができるでしょう。」
またこうも言いました「狄の広漠な地が晋に帰すれば都邑を造ることができます。晋の地を開くべきです。」
献公は進言を喜びました。
 
夏、献公が太子・申生を曲沃に、重耳を蒲城に、夷吾を屈に送りました(これは『春秋左氏伝(荘公二十八年)』の記述です。『史記』の『晋世家』『十二諸侯年表』は翌年の事としています)。他の公子も辺境に派遣されます。驪戎の二姫の子だけが絳に残りました。
 
梁五と東関嬖五が驪姫と共に申生や諸公子の讒言を繰り返したため、献公は申生を嫌うようになりました。
晋人は梁五と東関嬖五の二人を「二五耦」と称しました。「耦」は二人で共謀して事を行うという意味です。
 
史蘇が大夫に言いました「晋国の乱の本が生まれてしまった。主君が驪姫を夫人に立てた時、民の不満は頂点に達した。昔の聖人が起こした戦争は、百姓のために害を除くことが目的だった。だから民は喜んで従ったのだ。しかし今、主君は自分のために百姓を動員した。民は外と戦っても利を得ることなく、内に対しては国君の貪婪を憎んでいる。こうして上下の離心を招いてしまった。ところがその驪姫は男児を産んだ。これは天道(天命)なのだろうか。天は晋に対する禍を大きくし、民は現状に不満をもっている。これが乱の本になるはずだ。」
 
献公が太子・申生の廃位を考えているという情報が大夫達に入りました。里克、丕鄭荀息が相談をします。まず里克が言いました「史蘇の言が的中するだろう。どうすればいい。」
荀息が言いました「君に仕える者は力を尽くして政務に励み、君命には逆らわないものだ。主君が立てる者に臣下は従うだけだ。何を疑うことがあるか。」
丕鄭が言いました「君に仕える者はその義に従い、惑いに追従することはないという。惑いは民を誤らせ、民が誤ったら徳を失う。徳を失うのは民を棄てるのと同じことだ。民に主君が必要なのは、義によって民を治めなければならないからだ。義は利を生み、利は民を豊かにする。なぜ民と共に居ながら、民を棄てることができるのだ。義を大切にするのなら、太子を換えてはならない。」
里克が言いました「私には才がなく見識もないが、惑いに従おうとも思わない。静観しよう。」
三大夫は別れました。
 
曲沃で武公(献公の父)の蒸(冬祭)が行われることになりました。しかし献公は病と称して出席せず、驪姫の子・奚斉に出席させます。
猛足(申生の臣)が太子・申生に言いました「伯氏(長子。ここでは申生)が出席せず、奚斉が廟にいますが、あなたは自分の安泰を考えないのですか!」
申生が言いました「かつて羊舌大夫がこう言った『君に仕えるには恭敬であり、父に仕えるには孝順でなければならない』。君命を受けたら動かないことを敬といい、父の意思に従うことを孝という。君命に逆らったら不敬であり、勝手に行動したら不孝である。これ以外に何を考える必要があるのだ。そもそも父の愛から離れたのに賞賜を得るのは不忠だ。人を廃して自分を立てるのは不貞だ。孝、敬、忠、貞は君父が肯定する品徳である。それらを棄てて自分の地位を謀るのは、孝から遠く離れている。だから私はここに留まるのだ。」
 
後に申生は廃され、奚斉が太子に立てられます。後述します。
 
 
 
次回に続きます。