春秋時代30 東周恵王(九) 斉桓公の山戎遠征 前665~663年
今回も東周恵王の時代です。
恵王十二年
丙辰 前665年
[一] 春、魯が延厩を新造しました。馬厩です。本来、春は馬を放ち、秋に囲むといわれていたため、春に馬厩を造るのは時節にふさわしくないとされました。
[二] 夏、鄭が許を侵しました。
許は楚に従っていたようです。斉を中心とする中原諸侯と楚を中心とする南方諸国は対立関係にありました。
[三] 秋、魯で蜚(害虫)が出て被害がありました。
[四] 冬十二月、紀に嫁いだ叔姫(魯荘公の長女)が死にました。
[五] 魯が諸邑と防邑に築城しました。
[六] 周の大夫・樊皮が恵王に背きました。樊皮は樊邑の主です。東周桓王八年(前712年)、周が鄭に土地を与えましたが、その中に樊邑もありました。樊皮はこれに不満だったのかもしれません。
樊は翌年、周の攻撃を受けます。
恵王十三年
丁巳 前664年
[一] 春、東周恵王が虢公に命じて前年叛した樊皮を討伐させました。
夏四月丙辰、虢公が樊に入り、樊仲皮(樊皮。仲は兄弟の序列)を捕えて京師に還りました。
[二] 夏、魯荘公が成に駐軍しました。成は魯北境の斉に近い邑です。
[三] 二年前、鄭との戦いから還った楚の令尹・子元が鬬射師を捕えました(東周恵王十一年、前666年)。
本年秋、申公・鬬班が子元を殺しました。鬬穀於菟(子文)が令尹になります。鬬穀於菟は家財を用いて楚国の難を緩和させました。
[四] 七月、斉が鄣を降しました。鄣はかつて紀国の邑で、この時は紀季(東周荘王六年、前691年参照)が領有していました。
[五] 八月癸亥(二十三日)、魯が前年死んだ紀叔姫を埋葬しました。
[六] 九月庚午朔、日食がありました。
魯荘公が鼓を敲き、牲を用いて社(土地神)を祭りました(東周恵王八年、前669年参照)。
[七] 冬、魯荘公と斉桓公が魯済(斉水の魯国側)で会いました。燕が戎に侵されて苦しんでいたため、斉桓公は魯荘公に戎討伐の協力を求めます。荘公は協力に同意しましたが、魯の群臣が「数千里を行軍してやっと北戎(山戎)に入ります。無事に還ることはできないでしょう」と言いました。結局、斉が兵を出した時、魯は動きませんでした。
斉が山戎遠征を開始しました。
[八] この年、秦宣公が在位十二年で死にました。九人の子がいましたが全て跡を継がず、弟の成公が即位しました。
恵王十四年
戊午 前663年
[一] 春、魯が郎に楼台を築きました。
[二] 夏四月、薛伯が死にました。
[三] 魯が薛(薛国ではなく魯邑)に楼台を築きました。
[四] 前年冬、斉桓公が山戎討伐を開始しました。
令支国を討ち、孤竹国を破ります。どちらも山戎の属国です。
『資治通鑑外紀』はこの討伐で「令支と孤竹を討ち、狄王を捕え、胡貉、屠何を破り、騎寇(騎兵で侵攻する敵)を服すことができた」と書いています。これは恐らく『管子・小匡(第二十)』が元になっていますが、『管子』の記述は斉桓公の功績をまとめて「中原で晋公を援けて狄王を捕え、胡貉、屠何を破り、騎寇を帰順させた。山戎を北伐して令支と孤竹を討ち、九夷が服従した」と書いています。「狄王、胡貉、屠何」を破った戦いと、「令支、孤竹」を破った戦いは別のようです。
『資治通鑑外紀』が誤って記述したのか、『管子』の内容を訂正して「狄王、胡貉、屠何も北伐時に破った」と書き換えたのかは分かりません。
斉桓公の北伐によって九夷も沿海の諸国も全て斉に服しました。
管仲と隰朋は軍中の老馬を放ちました。老馬は道を覚えていたため、斉軍は老馬の後に続き、無事に道を見つけることができました。
山中では水がなくなりました。隰朋が言いました「蟻は冬の間は山の南に巣を作り、夏は山の北に巣を作ります。もし蟻封(蟻が巣を作った時の土。蟻の巣の入り口に水や風を防ぐために作られた土の塊)が一寸あったら、一仞(八尺)の深さに水があるはずです。」
斉軍が蟻の巣を探して土が積もっている場所を掘ると、水を得ることができました。
前半部分は「老馬識途」という四字熟語になっています。老馬のように経験が豊富な人は知識も多いという喩えです。
斉桓公は凱旋して燕国に入り、そこから斉に還りました。燕荘公が桓公を感謝して国外まで送り出します。桓公が言いました「天子でなければ諸侯を送って自分の国を出てはならない。私は燕に対して礼を失うことはできない。」
帰還した桓公は出兵しなかった魯を討伐しようとしました。しかし管仲が言いました「遠くを討伐して帰ったら近くを誅する。これでは隣国が親しまず、覇王の道とはいえません。魯を攻撃したら魯は楚に頼るでしょう。我が国の一挙が二つの敵を作ることになります。今回の遠征で得た山戎の宝器は、中国(中原)では珍しいものです。周公の廟(魯)に献上するべきです。」
『春秋左氏伝』はこの一件を礼から外れたこととしています。以下、『春秋左氏伝』からです。
斉桓公が戎討伐で得た捕虜や戦利品を魯に贈りました。
しかし諸侯が夷狄を討伐して功績を立てたら天子に報告して戦利品を献上し、天子はそれを使って四方の戒めとすることが礼とされていました。今回、桓公が魯に戦利品を贈った行為は非礼なことでした。
[五] 秋、魯が秦(魯地)に楼台を築きました。
[六] 冬中、魯で雨が降りませんでした。
[七] この年、梁伯(秦と同祖で嬴姓)と芮伯が秦に来朝しました。
[八] 斉桓公が管仲と謀り、莒国を攻撃することにしました。出征のことは桓公と管仲だけで決定されたため、国内には公開していません。しかし暫くすると国中が知るようになりました。桓公が怪しんで管仲に話すと、管仲はこう言いました「国内に聖人がいるのでしょう。」
桓公が言いました「過日、労役従事している者がわしを眺め見ていた。彼に違いない。」
桓公はその日に服役していた者に再び労役を命じ、交代を禁止しました。
管仲は宴席を用意して東郭牙をもてなし、「莒討伐の話をしたのは汝か」と問いました。
東郭牙は「そうです」と答えます。
管仲が問いました「わしは莒討伐を公言していないのに、なぜ汝はそれを知ったのだ。」
東郭牙が答えました「君子は謀を善くし、小人は意(他者の意思を探ること)を善くすると言います。臣は推測したのです。」
管仲が問いました「なぜ推測できたのだ。」
東郭牙が答えました「君子には三色(三つの様子)があると言います。喜楽が明らかな時は鐘鼓を楽しんでいる時の色です。清冷で静かな時は喪に服している色です。怒気を満たして手足が落ち着かない時は兵革(武器甲冑。戦争)の色です。先日、臣は主君が台上にいるのを見ました。その姿は兵革の色でした。また、主君は口を開いてから閉じず、『莒』と言っていました。主君が腕を挙げて指をさしたのは莒でした。諸侯の中で斉に服していないのは恐らく莒だけでしょう。だから莒を討伐すると人々に話したのです。」
桓公は東郭牙を厚遇しました。
斉が莒に兵を向けると、魯荘公が国中の丁男(成人男性)を動員して斉に協力しました。身長が五尺しかない男子も全て従軍します。魯の出兵は斉が山戎で得た宝器を魯に譲ったためでした。
次回に続きます。
春秋時代31 東周恵王(十) 魯の内争 前662年